それでも、組合事務所のプレハブ小屋に泊まりになるような晩、ぼくはパクさんと夢中で語りあかした。ありとあらゆること、なかでも作品について。ぼくらは仕事に満足していなかった。もっと遠くへ、もっと深く、誇りを持てる仕事をしたかった。

 何をつくればいいのか…。どうやって…。

 パクさんの教養は圧倒的だった。ぼくは得がたい人にめぐり会えたのだとうれしかった。

 その頃、ぼくは大塚康生さんの班にいる新人だった。大塚さんに出会えたのは、パクさんと出会えたのと同じ位の幸運だった。アニメーションの動かすおもしろさを教えてくれたのは大塚さんだった。

 ある日、大塚さんが見慣れない書類をこっそり見せてくれた。それは、長編映画の作画監督をするについては、演出は高畑勲でなければならないという申入れ書だった。当時、東映動画では監督と呼ばず、演出と呼んでいた。おそらく、監督では著作権が発生するのを会社が嫌がったからだろう。

 パクさんと大塚さんが組む! 光がさしこんで来たような高揚感が湧きあがった。そして、その日が来た。長編マンガ第10作目が大塚、高畑コンビに決定されたのだった。

 ある晩、大塚さんの家によばれた。スタジオ近くの借家の一室にパクさんも来ていた。茶袱台に大塚さんはキチンと座っていた。パクさんは組合事務所と同じようにすぐ畳にねころんだ。なんと、ぼくもねころんでいた。

 奥さんがお茶を運んでくれた時、ぼくはあわてて起きたが、パクさんはそのまま「どうも」と会釈した。女性達にパクさんの人気がないのはこの不作法のせいだったが、本人によると股関節がズレていてダルいのだそうだ。

 大塚さんは語った。

 こんな機会はなかなか来ないだろう。困難は多いだろうし、製作期間がのびて問題になることが予想されるが、覚悟して、おもいきってやろう。

 それは意志統一というより、叛乱の宣言みたいな秘密の談合だった。もとより僕に異存はなかった。なにしろぼくは原画にもなっていない新米といえるアニメーターにすぎなかったのだ。大塚さんとパクさんは事の重大さがもっとよく判っていたのだと思う。

 勢いよく突入したが、長編10作の制作は難航した。スタッフは新しい方向に無器用だった。仕事はおくれにおくれ、会社全体をまき込む事件になっていった。

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