1956年11月8日、東京・晴海埠頭を出港する観測船「宗谷」 (c)朝日新聞社
1956年11月8日、東京・晴海埠頭を出港する観測船「宗谷」 (c)朝日新聞社

 だれも経験したことがない極寒、吹雪、そして白い闇。1957年1月29日、未知なる氷の世界に、昭和基地は開設された。日本の南極観測の幕開けであった第1次隊の挑戦は、山男たちのせめぎ合いから始まった。(文中敬称略)

 1956年11月8日午前11時、第1次南極観測隊53人を乗せた観測船「宗谷」は高らかに汽笛を響かせた。雨の中、東京・晴海埠頭(ふとう)の桟橋は見送りの群衆で埋め尽くされた。

 その記録が朝日新聞社内にある。

「1万を超える群衆が手に手に社旗をふって、隊員と宗谷乗組員を励ましていた……。この船出の日を信じて計画を進めて来たものは、岸壁の群衆のなかにあった」

 それは朝日新聞社会部の記者だった矢田喜美雄である。南極観測を発案し、計画を推し進めた一人でありながら、南極行きの切符を逃した。

 60年前を知る人も今はわずかだ。1次隊で越冬した11人のうち健在なのは、犬係だった北村泰一(85)と朝日新聞の通信士だった作間敏夫(89)だけ。1次隊員の証言とともに当時の記録をひもといた。

 宗谷出発の1年8カ月前。矢田は55年3月、朝日新聞社会面に「北極と南極」を連載した。その取材で、57~58年の「国際地球観測年(IGY)」に向けて、先進国が南極で学術調査を計画しているという情報をつかんだ。

「日本も参加できないか」

 早稲田大在学中、ベルリン五輪の走り高跳びで入賞し、入社後は下山事件の謎に切り込んだ記者は、「白瀬の探検の時のように支援してはどうか」と、編集局長の広岡知男に進言した。

 11~12年、南極点世界初到達を、ノルウェーのアムンゼン、英国のスコットと競った白瀬矗(のぶ)中尉の探検隊に、朝日新聞社は5千円を寄付し、義援金を呼びかけた歴史がある。

 社をあげた支援はすぐに決まった。後に1次隊メンバーとなる永田武・東大理学部教授(当時)は「北極・南極は学問上、最も大切な場所なのだが、われわれは『とても行かれぬ』と考えてしまっていた。かなうとは願ってもない計画だ」と喜んだ。

 時の文部相は、白瀬を支えた大隈重信を尊敬し、早大で学んだ松村謙三。「戦後日本の後退した空気を一掃し、活力を与える」と政府内最大の推進役に。

 一気にまとまったように見えたが、国際舞台は一筋縄ではいかない。敗戦国日本に反感をもつ国も少なくなかった。IGY特別委員会への働きかけとして、地磁気学で海外の研究者と交流する永田が、委員長のチャプマン教授に手紙を送った。「パリで7月に第1回南極会議が開かれる。出席をしてはどうか」と返事が届いた。だが、日がない。計画案を朝日新聞パリ支局に電報で送り、支局長らは徹夜で翻訳し、提出を間に合わせた。しかし、観測地をノックス海岸とした日本案は退けられる。議長は「敗戦国で経済的にも大規模な調査は無理だろう」と発言したという。

次のページ