9月、日本代表はブリュッセル会議に臨む。各国代表を前に永田が「君たちに日本以上の観測ができるのか」とたんかを切ったのが功を奏したのか、日本は参加を認められ、基地はプリンス・ハラルド海岸と決まった。そこは人跡未踏の地で、夏でも厚さ数メートルの海氷が行く手を阻む。その広さは海岸から100キロに及ぶこともあり、諸外国が見放していた場所だった。

 朝日新聞社は「南極学術探検事務局」を立ち上げ、矢田は設営全般を任された。南極偵察船の出航、砕氷船の選定、飛行機やヘリコプターの準備、隊員訓練と次々に進めた。

 一方、関係省庁が連携する「南極地域観測統合推進本部」の設置が決まるも、予算はなく、動けない。永田は朝日新聞社に頼らざるを得ない状況にいらだちを覚えたのか、矢田に言い放った。「主導権は自分たちにある」。南極観測は「政府事業」である、と。

 主導権争いは、第1次観測隊の隊長の人選でも垣間見えてきた。

「学術」の永田か、日本山岳会が推す「探検」の西堀栄三郎か──。南極特別委員会は、経歴も性格もまるで異なる2人を巡って、意見が真っ二つに割れた。「永田は学術会議代表だ。IGY南極委員会にも顔が知られ、海外から支援が得られる」「観測は基地設営の正否にかかわる。極地に強いのは西堀だ」

 結局、隊長に永田、副隊長に越冬隊長を兼ねた西堀で落ち着いた。

 56年元旦、南極周辺から送られた写真が朝日新聞朝刊1面を飾った。「プリンセス・オラブ海岸沖で見た氷山」と「夕日をうけて泳ぐナガス鯨」の2枚は、1万数千キロ離れた船上から無線で送られた。「到達不能」のハラルド海岸に迫った写真を電送したのは、連絡部無線係だった梶光雄(87)だ。日本では、紙に焼いた写真を電話回線で送れるようになったばかり。「ぼくは『0次隊』で任務は南極偵察だった」と、梶は振り返る。上司に「失敗しても海に飛び込むなよ」と見送られた入社3年目の梶は、1枚に約10分かけて送った。

 その時、東京本社では、

「出て来たものは4枚、うち1枚は電波の乱れで全く使いものにならない。残りの3枚は地球の底から直接入ったものにしては立派な絵だった。1万キロをこえる南極からの現地電送というのは世界で初めてのこと」

 と、記録されている。(朝日新聞記者・中山由美)

週刊朝日 2017年2月3日号より抜粋