「ざっと読んでみると、『大坂城には4億5千万両がある。当面これ以上の金は必要ないから多田銀山の採掘を中断し、将来必要になった時のために鉱脈や採掘方法を後世に書き残しておく』という内容。黄金を埋めたとは一言も書いていませんでした」。渡辺氏は2人組にそう説明したが、全く聞く耳を持たず、宝探しだと意気込んで帰っていったという。

 この経験から渡辺氏は「温存した鉱脈のことを記した古文書が誤読され、独り歩きした。これが秀吉埋蔵金伝説の本質でしょう」と推測する。もちろん、渡辺氏が見た巻物が、大阪や三重の旧家から出たとされる秘文書なのかどうかは確認されていないが。

 実は、日本トレジャーハンティング・クラブ代表の八重野充弘氏(69)も、秀吉の埋蔵金伝説には懐疑的な見解を持っている。彼が注目するのは莫大すぎる埋蔵額だ。

「私が伝説に信憑性があるかどうかを判断するときに重視する基準は、5W1Hがそろっているかどうか。つまり、いつ、誰が、どこに、何を、なぜ、どのように隠したか、ということが矛盾なく説明できるかということです。その点、多田銀山の場合は『何を』に欠陥がある。いかに秀吉といえども、4億5千万両というのは当時の金の生産量から考えてあまりにも非現実的な数字。どこかに埋蔵金があってほしいという思いはあるが、伝説の信憑性を考える時、この点がどうしても引っかかってしまう」

 税務署員を名乗る人物からの新聞投稿で火がついた埋蔵金伝説。しかし、その後多田銀銅山に集まった探索者たちは皆、小判一枚発見できないまま、やがて宝探しを断念していった。中には、静岡県出身の鈴木盛司氏のように、現地に住み着き、家族も定職も持たずに30年以上探し続けた人物もいた。「最後の探索者」とも言われたが、夢を果たせないまま、2012年に77年の生涯を閉じた。

 かつて鈴木氏の探索仲間だった兵庫県宝塚市の埋蔵金研究家、谷口哲也氏(62)は「学者の間では多田銀銅山の埋蔵金伝説に否定的な意見が多いでしょうが、九州には、大坂の陣後、薩摩に落ちのびた秀頼のもとに、真田家の家臣が金銀を運んだという伝承もある。埋蔵金は存在し、その一部は今もどこかの坑道の奥に眠っていると思います」と話し、いつの日か再び宝探しに取り組んでみたいと情熱を燃やし続けている。

 秀吉の黄金が姿を現す日は来るのだろうか。

週刊朝日  2016年12月2日号より抜粋