戦争が始まると、甘美な空気は一変。軍歌、軍国歌謡が流行歌に取って代わりました。質素倹約が美徳とされ、化粧やおしゃれをすれば非国民だとなじられた。

「ブルースの女王」と呼ばれた淡谷のり子さんは、そうしたなか何度も戦地へ慰問に行った、とご本人から伺っています。兵隊さんの前で、「別れのブルース」や「雨のブルース」を歌うと、軍の上官に、「退廃的な歌はダメだ。淫売みたいなドレスはなんだ」となじられ、モンペに着替えろと命じられる。それでも淡谷さんはドレスを脱がず、「殺されてもかまいません。死にゆく若者が最後に見る日本女性の姿が、モンペなんて情けないじゃありませんか」と答えたそうです。

 歌声が響くなか、特攻で出撃する若い兵士がひとり、またひとりと席を立つ。唇を、「ありがとうございました。行って参ります」と動かし、敬礼して消えていく。舞台で、彼女は何度も、後ろを向いて泣いた。そして、歌い続けたのです。

 東海林(しょうじ)太郎さんといえば、直立不動の歌手ですが、当時は、それが美徳とされ、動けなかっただけです。女性の歌手は、ハンカチで汗をふき、男性は楽団の指揮をするまねをして、間奏の時間をもたせました。

 芸術が、文化が、抹殺されようとした時代でした。私の三味線のお師匠は、特高警察に「なぜ銃を持たないのか」と、三味線をたたき折られたそうです。英語は「敵性語」、英米音楽は「敵性音楽」だと禁止された。バイオリンではなく、「ひょうたん型糸こすり器」と呼べという。笑いバナシにもなりませんよ。

週刊朝日 2015年7月24日号より抜粋