上杉家9代目当主 吉良上野介の子孫でもある上杉家から見た「忠臣蔵」

週刊朝日
 上杉子爵家9代目当主の上杉孝久(たかひさ)氏は、「忠臣蔵」は上杉家の立場からすればテロリストと同じだとこう語る。

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 戦(いくさ)上手で「軍神」とも言われる上杉謙信は、49歳で亡くなるまでに70回ほど戦い、負けたことはほとんどありませんでした。毘沙門天(びしゃもんてん)を信仰し、生涯独身を通しています。子どもはいませんから、跡を継いだ景勝(かげかつ)は養子でした。

 謙信から4代目の綱勝(つなかつ)が若くして亡くなったときも子どもがいませんでした。このときは吉良(きら)家から養子をとって、なんとか上杉家は続きました。

 世継ぎがいなければ家は断絶します。上杉家の6代・吉憲(よしのり)は、弟の勝周(かつちか)に領地の1万石をわけて分家をつくりました。本家で男の子ができなかったときには、分家から養子に入る。言ってみれば、分家というのは世継ぎのストックのようなもの。勝周が分家の初代で、私が9代目になります。

 分家をつくったとたん、本家ではたくさんの子どもに恵まれて心配は解消されました。一方、世継ぎのストックであるべき分家は、男の子に恵まれなかった。分家の3代から9代の私にいたるまでずーっと養子。しかも、私以外は全員、本家から養子に来ているからあべこべですよね(笑)。

 ところで、吉良家から来た本家の5代・綱憲(つなのり)は、吉良上野介(こうずけのすけ)の長男でした。綱勝の妹が上野介に嫁いでいて、生まれた長男を上杉家に出したのです。だから、今の上杉家は、上野介の血筋だとも言えます。

 長男を上杉家にわたした上野介夫妻には男の子がいなくなり、後に綱憲の次男・義周(よしちか)を世継ぎにもらっています。上杉家ととても濃い血縁関係となった吉良家でしたが、元禄15年12月14日、赤穂(あこう)浪士の討ち入りで絶望のどん底へ突き落とされました。

「忠臣蔵」は美談になってますけど、あれ、どう考えてもテロリスト以外の何者でもないですよ。47人の武装集団が丸腰の老人の寝込みを襲って、首をとったのですから。

 上野介は高家(こうけ)筆頭といって、朝廷をもてなすしきたりなどを、慣れていない大名に教える役目でした。石高(こくだか)は低いけれども名門の家です。ある程度は厳しく作法を教えていたでしょう。でも、何か教わったら感謝をするものじゃないですか。それなのに、短気でかんしゃく持ちだった浅野内匠頭(たくみのかみ)は、いじめられているような被害妄想を持ったのかもしれない。内匠頭が江戸城内で上野介に斬りかかったのが松の廊下事件です。

 当時の決まりごとで、お城の中で刀を抜いた内匠頭が切腹・お家断絶となったのはあたりまえのことでした。しかも、上野介は一方的に斬られたのだから、吉良家が罪に問われないのも当然です。内匠頭の家臣とはいえ、上野介に恨みを持つのはおかしな話でしょう。

 赤穂浪士の討ち入りに対する幕府の処置も異常でした。上杉家から上野介の世継ぎに入った義周は赤穂浪士たちとの戦いの最中に負傷、気絶して生き残る。それが死んだふりをしていたということになり、父親を守らなかったと罪に問われ、領地没収の上に身分を剥奪(はくだつ)。諏訪に幽閉されて21歳で亡くなってしまう……。

 こんなことを言っても、今さら「忠臣蔵」のイメージを覆すことは難しいけれど、一人でも、上野介は悪くないと思ってくれれば嬉しいです。

(構成 本誌・横山健)

週刊朝日  2014年12月19日号

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