父の大正天皇に手をひかれた、3歳頃の裕仁親王 (c)朝日新聞社 @@写禁
父の大正天皇に手をひかれた、3歳頃の裕仁親王 (c)朝日新聞社 @@写禁

 9月に宮内庁から公表された『昭和天皇実録』。『昭和天皇伝』を執筆した京都大学大学院教授の伊藤之雄(ゆきお)さん(62)は、父親の影響力に注目した。

 私は、2011年に昭和天皇の伝記である『昭和天皇伝』(文藝春秋)を書いています。昭和天皇は、諸外国を視野に入れた開放的な思考の持ち主でした。実録を読んでみて、それは幼少期から青年期の成長過程に受けた大正天皇の影響が大きかったのだと、改めて感じました。もういちど伝記を書くとすれば、その点を強調したいですね。

 裕仁親王が6歳だった明治40(1907)年12月18日に「皇太子(大正天皇)・同妃よりクリスマスの靴下に入った玩具を賜わる」とあり、その後もクリスマスに関する記述が見られます。西洋的な行事は大正天皇の好みなんですね。

 8歳の年、明治42(09)年の10月25日には、当時はやっていた世界一周唱歌を3親王が歌う記述も出てきます。「御食後、皇太子等と御一緒に『世界一周唱歌』を合唱される」。つまり、大正天皇がこの歌を好きなんですね。植民地を広げてという歌詞は一切なく、「棕櫚(しゅろ)の花咲くシンガポール/椰子(やし)の実みのるセイロン島/暑きインドを過ぎゆけば/渡るに易きスエズの海」といったふうに、世界各国を訪ねていく。いわば鉄道唱歌の世界版です。開放的な雰囲気のなかで成長したことがよくわかります。

 裕仁親王の国外への興味は、海軍好きというエピソードからもくみ取ることができます。どうやら陸軍よりも海軍が好きなようです。同じ年の夏、神奈川県の葉山御用邸に滞在していた7月18日に、洋館の付属邸を軍艦に見立てた軍艦遊びの記述が出てきます。雍仁(やすひと)親王(秩父宮)、宣仁(のぶひと)親王(高松宮)やご学友と一緒に、付属邸を「『軍艦の御茶屋』又は『軍艦御用邸』と呼び習わし、葉山御滞在中しばしばお成りになる」。

 少年にとって、海は外界への扉の象徴です。一方で、陸軍の練兵を見ておもしろかったと手紙に書く場面はあるものの、陸軍遊びはしていません。後年の陸軍との衝突を思うと、興味深い傾向ですね。

週刊朝日  2014年10月31日号より抜粋