戦国時代、123万石の大名として栄えた丹羽(にわ)家。丹羽家第18代当主・丹羽長聰(ながとし)氏が忠臣蔵にまつわるこんな話を披露した。

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 丹羽家に刀は一本も残っていません。槍は穂先がなくて柄だけがあります。戦時中の供出や戦後の混乱期で手放したからだそうです。

 それでも、初代・長秀の手紙などの資料や、軍配や兜(かぶと)などは受け継いでいました。だけど、自分の家で保管するのはダメですね。虫は食うしカビは生える。うちも明治以降は東京暮らしですが、地元の福島県二本松市に相談してみると、預かると言う。そこで、ほとんどの品々は寄託しました。

 預けた品々の中に、煙草盆がありました。漆塗りで、炭入れと灰入れが載っているのですが、灰入れの金属製の縁(ふち)が大きくへこんでいた。僕が引っ越しをするときに家から出てきたのだけど、傷モノだし捨てちゃおうかと思った。でも、二本松市の学芸員に見せたら、「あの話は本当だったんだ」って驚いていました。

 あの話、というのは二本松では有名な忠臣蔵にまつわる言い伝えのことです。実は、浅野家と丹羽家は親戚でして、浅野内匠頭(たくみのかみ)は3代・光重の姉の孫なのです。松の廊下で内匠頭が吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りつけたことを聞いた光重は激高して、持っていたキセルで煙草盆の灰入れをバーンとたたいてこう言った。

「なぜ斬りつけたのか! 突きさえすれば仕留められたものをっ!!」

 とても悔しがったそうです。二本松藩の剣術は突きでしたからね。

 僕もこの話は聞いていたけれど、煙草盆を見ても、それだとは気づかなかった。いやあ、捨てなくて良かったですよ(笑)。

 戦後しばらくして父が亡くなり、僕は7歳で家督を継ぎました。父には姉が2人いたのですけど、この伯母たちがときどき来ては、何かしら一つ二つ注意していく。「ご飯の食べ方が悪い」とか「殿様は一度座ったらどっしりと動かない。お前はどうしても首が動く」なんてことも言われた。ものすごくしつけが厳しい。だから、伯母たちが来るときは怖くて、家に帰らずに遊んでましたよ。

 おふくろは、しきたりなどについては何も言いませんでした。ただ、僕が20歳になったとき、「藩主だった丹羽家の代表として行きなさい」と、二本松少年隊の慰霊祭に行かされました。

 二本松少年隊というのは、幕末の戊辰戦争で新政府軍と戦った12~17歳の少年兵部隊のことです。14人が亡くなっています。

 初めて参列したとき、お年寄りの方に言われました。

「二本松少年隊の朝敵の汚名をそそいでほしい」

 それも、1人2人じゃなかった。でも僕は、「朝敵」という言葉も知らなくて、「チョーテキ」ってなんだろう、と思っていた。家に帰っておふくろに聞いたら、「そんなことも知らないのかね。お前はバカだね」って言いながらも教えてくれましたよ。おかげで、二本松に根強く残る戊辰戦争での無念を知りました。

 地元の思いを知れば、気持ちも引き締まります。僕の力では何もできなくて申し訳なく思いますが、毎年7月末に行われる慰霊祭には、20歳から70歳になる今年まで、一度も欠かさず参列しています。東京にいたらただの人だけど、二本松に帰ればけっこう大事にしてくれるしね(笑)。

(構成 本誌・横山 健)

週刊朝日  2014年10月3日号