天武・持統天皇が合葬されている奈良県明日香村の野口王墓古墳 (c)朝日新聞社 @@写禁
天武・持統天皇が合葬されている奈良県明日香村の野口王墓古墳 (c)朝日新聞社 @@写禁

「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」の発表が11月14日に行われ、天皇陛下の葬儀に関する決定が明らかになった。天皇陛下の希望する美智子さまとの合葬はかなわなかったが、「国民の負担にならぬよう、簡素に、質素に」という思いは反映され、火葬されることが決定。火葬は現代社会では当たり前のことのようだが、長い皇室の歴史は、どうなっていたのだろう。

 皇室の葬儀は、古くは土葬だった。権威を示そうと、ご遺体を納めるために巨大な陵(みささぎ)が造られてきた。だが、中央集権化によって権威を示す手段として陵は用いられなくなり、646(大化2)年、民衆の負担を軽減しつつ、造ってよい陵に身分に応じた制限を加える「薄葬令」が出された。すると自然と陵は小規模化する傾向に。前方後円墳などが盛んに造られた古墳時代は終焉(しゅうえん)に向かうことになった。

 その流れと仏教の影響などで、703(大宝3)年、女性天皇だった第41代持統天皇が初めて火葬された。その後、土葬も火葬もどちらも行われている時期があったが、室町時代中期から火葬が定着した。

 再び土葬が復活したのは、江戸時代。1654(承応3)年、後光明天皇が神道にのっとって、土葬に。そして幕末の孝明天皇(1866年没)のときに、火葬は完全に廃止された。

 大正時代には「皇室喪儀令」が整備され、天皇と皇族は土葬による葬儀が行われることが決定。だが、終戦後の1947年、この法律は廃止される。以降、皇族の火葬は定着するが、天皇と皇后のみ、土葬が続くことになった。

 宮内庁によると、歴代天皇122人のうち、土葬は73人、火葬は41人、不明が8人。今回の検討にあたり、天皇陛下と美智子さまは、古い事例まで丁寧に調べつつ、儀式のあり方を検討されてきたという。

 ただ、天皇陛下が望まれた皇后との「合葬」の前例は2例だけ。530年ごろに実在したとされている宣化天皇と橘仲皇女と、天武天皇と皇后である持統天皇だ。例があまりに少ないため、美智子さまが遠慮されたお気持ちも理解できる状況ではある。

週刊朝日  2013年11月29日号