年の瀬といわれるようになると木枯らしも身体に沁みてきます。この時期に開かれるのが「ボロ市」や「歳の市」。今年を納め新しい年を迎える準備のために立つ市です。今年はまだまだ制限がありますが、三年ぶりの開催が発表され、多くの人々に安堵と希望をもたらしています。今年は単純明快に人が作り出す賑わいの楽しさや豊かさを実感して、来年につなげていけたらと思っています。寒さの中ですが、ほっこりできる市へ出かけてみませんか?

「ボロ市」とは開放された「自由市場」

「ボロ市」というと何となく農民、庶民が寄り集まって、使い古した物を交換したのがはじまり、という気がしませんか? とんでもありません! 「ボロ市」は誰でも自由に交易ができるように開放された「自由市場」としての政策が根本にあるのです。
現在でも、企業が互いの利益を守るために協議したり協定を結ぶなどして、不当に権益を独占することが取り沙汰されます。ちょうど「ボロ市」が誕生した頃の世の中も、特権商人が市場を独占している状態だったのです。

そこで、新しく台頭してきた商工業者を後押しするために大きな政策が打ち出されました。これが有名な織田信長の「楽市・楽座」です。天正5(1577)年6月安土城下で発布されると、商人の特権は排除され、市場税や商業税が免除となったことで「自由市場」が確保されたのです。

日本には優に400年を越える「自由市場」の歴史があることに誇りを感じませんか? 特に「ボロ市」が21世紀までつながってきたのは行政によって作られた枠を生かし、庶民によって伝えられてきたからと感じます。権力を持つことなく助け合い協力して生活を豊かにしていこう、という明るさが「ボロ市」の活力ではないでしょうか。

参考:
『ブリタニカ国際大百科事典』

「ボロ市」にあるのは夢と祝祭

有名な「ボロ市」は東京世田谷の旧代官屋敷付近に立つ市です。毎年12月15、16日と1月15、16日に開かれ、町内1キロにわたり、さまざまな店が立ち、地元のみならず遠方からの来場者も多く、大変賑わいます。

始まりはなんと「楽市・楽座」が発布された翌年です。天正6(1578)年に小田原城主北条氏政がこの地に楽市を開くことを許可した「楽市掟書」が残されています。当初は毎月1と6の日、月6回定期的に開かれることから「六斎市」として始まりました。現在の形になったのは明治以降とのことです。

「自由市場」として始まりましたが、江戸と小田原を結ぶ重要拠点として繁栄したこの市も、北条氏が滅亡し、徳川の治世になると急速にすたれていきました。

その後は地元民にとっての「ボロ市」として根強く残っていったのです。古着や野良着に充てる継ぎ布から農器具など、日々の生活に必要な品々が持ち込まれ取引されました。やがて12月には、お飾りのような縁起物だけでなく、臼に杵といったお正月を迎えるための品々が取引される歳の市としての役割を持つようになっていきました。正に自分たちが必要な物を自由に売り買いできる場所が「ボロ市」だったといえましょう。

参考:
[世田谷のボロ市]

昭和時代の世田谷ボロ市
昭和時代の世田谷ボロ市

「フリーマーケット」の「フリー」実は「蚤」です

現在の「ボロ市」は近年各地で開かれている「フリーマーケット」に近くなっていると感じています。ずらりと並ぶ品物は千差万別。その中から自分にとって価値のある物と出会う幸運を探しに行くわけです。

「フリーマーケット」はフランス語の「蚤の市」を英語に訳したもの。英語で「フリー(flea)」は「蚤」。「蚤の市」といった方がおなじみですね。骨董市のことです。自宅の調度を設えるために家具を選び、さまざまな絵画や工芸品で自宅を飾って楽しむヨーロッパの人々にとって、骨董市は家具調度の流通のため、また常に新しい美との出会いの場として大いに興味を惹かれる場所となっています。

ところが、日本人が「フリーマーケット」と聞けばどうしても「フリー(free)」「自由」が浮かびます。音もさることながら、「ボロ市」として400年を越える「自由市場」の伝統があることを考えると、こちらの方を考えるのが自然だとも思えてきます。

リサイクルが叫ばれるようになった頃から、自分にとっての不要品は誰かにとってのお役立ち、としてまだ使えるものを有効利用する精神が育まれていきました。この心はこれからいっそう重要になっていくに違いありません。積極的に「ボロ市」や「フリーマーケット」を利用して、決してチープに見えない豊かな生活を目指していきませんか。