農暦(中国・台湾での旧暦)5月13日(2017年は6月7日)は、古くより「竹酔日(ちくすいじつ)」と呼ばれてきました。地下茎で繁茂し生命力旺盛だが移植が難しいとされる竹が、この日は酔っ払って前後不覚となっているので何をされても気づかないので移植に適した特異日だ、というのです。なぜ竹が酔っ払うのか、酔っ払うとなぜ移植しやすいのか、よくわかりませんが、日本ではこの日が竹から生まれたかぐや姫が月に帰った日ともされています。

竹はこの時期から黄葉する・あまり知られていない竹の生態

「竹酔日」のもともとの由来、原典ははっきりしていません。「晋書」にあるとか、北魏のころの世界最古の農学専門書「斉民要術」にその記述があるとか、かと思えば清代の「花傭月令」に記述されているもので比較的歴史は浅い中国の俗説だとか言われる一方で、現代の中国では「日本や韓国の民間信仰だ」と紹介されていたりして、由来も意味も謎です。
ただ、竹という植物そのものが未だに多くの謎を秘めていて、どこか宇宙的で神秘的。竹酔日だけが「わけわからない」のではないのです。
私たちの生活に大きくかかわる身近な植物で、どこにでも生えている印象のある竹。竹やその小型版ともいえる笹の世界での分布の中心はアジアのモンスーン地域と南アメリカで、起源となる竹の祖先は南アメリカで生まれたと考えられています。竹というと日本を含めたアジアの植物、という印象があるので、ちょっと意外ですよね。
日本列島には、寒冷地域に分布するチシマザサ(ネマガリダケ)が日本原産、マダケ(真竹)も第三紀の地層から化石が出土し、日本や朝鮮半島にもとからあった種である、とも考えられています。
このマダケ、一斉開花することで知られていて、その周期は120年と推測されています。そして開花が終わると地下茎が生きたまま、一斉に地上部が枯死します。開花する際には本当に一斉で、もっとも最近のマダケの集団開花と枯死は1960年代。何と国内のマダケ林の1/3に相当する約4万haが枯死したといわれます。マダケは多くの加工品に使われる重要な資源であり資材でしたから、政府は母竹の植栽を行い、復旧事業につとめましたが、移植・植栽の難しい竹はほとんど根付かず、竹製品を使用する国内の産業はこのときプラスチック製品などに大きくシェアを奪われることとなり、以降の竹製品の衰退につながりました。
そして、この新緑の季節は、竹にとっては「秋」にあたります。この時期、竹の葉が黄色に変色して落葉することから、「竹秋」と呼ばれます。もっとも、竹に限らず常緑の多くの樹木、椎、樫、楠、松、ヒイラギなどがこの時期新しい葉を芽吹かせるのに合わせて古い葉を落とし、いわば「常緑樹の秋」と言ってもいい時期で、この時期実は落ち葉の掃除が大変なことは、庭や公園の掃除をされている方ならばきっとよくご存知ですよね。
竹の場合、竹秋に先立つのがタケノコの季節。竹秋はタケノコの季節が終わった頃にやってきます。タケノコの成長力はすさまじく、一日で1メートル以上も伸び、地上に芽を出してからほぼ10日ほどで若竹に成長します。そのために竹の地下茎は精力を注ぎ込み、前年以前の竹の葉が黄色くなって落葉するのというわけです。

ところで「タケノコ」って何の竹の「子」?

私たちは普段「竹」とのみ認識して、種類の区別などしていないものですが、日本には先述したマダケ以外にも少なくとも150種に上る竹が自生しています。その中で、私たちが現在「タケノコ」として盛んに食べているのはモウソウチク(孟宗竹)です。日本に自生する竹の中では最大種で、現在本州以南の日本でもっともポピュラーに見られる竹です。平安時代に唐から移入されたとも、鎌倉時代に入ってきたとも言われていますが、全国に広まったのは江戸中期の元文年間(1736~1740年)に薩摩藩によって琉球王国経由で大陸から移入され、各地の寒村の窮乏を救うために盛んに移植されてから。
モウソウチクはあの「親孝行」の鏡として有名な孟宗の名に由来しますが、孟宗が必死になって掘ったという逸話にたがわず、そのタケノコはやわらかく大型でえぐみが少なく、食用として最適で、現在のタケノコのほとんどのシェアを占めています。
だとすると、モウソウチクが普及する以前の日本で食べられていたタケノコは何だったのでしょうか。一名「苦竹」とも言われて、えぐみが多いマダケのタケノコや、ハチク(淡竹)のタケノコ、またチシマザサのタケノコが主だったと推測されています。
現在でもスーパーなどではまず見かけませんが、それらのタケノコは全国の一部で生産され、食べられています。ネマガリダケと呼ばれるチシマザサのタケノコは特に山菜の珍味としてファンも多いですよね。ネマガリダケの旬が6月であることから、現在でも「筍」の俳句の季語は初夏から夏となっています。

あの日本一の温泉観光都市を生み出したのは、竹の強靭なしなりだった!

日本人が竹を利用しはじめた歴史は古く、東京都練馬区の縄文時代の遺跡から竹を編んだ製品が出土しています。伝統的な日本家屋では壁や屋根の建材、樋、垣根、枠組みやインテリア・装飾に竹がふんだんに使われていますし、農機具や漁具、その性能と威力は弓の中でも世界一とも言われる和弓、日用品であるうちわやせんす、傘、ホウキ、物差し、ちょうちん、串、水筒、物干し竿。花器からおもちゃまで、ありとあらゆる生活にかかわってきたといって過言ではないでしょう。
日本の代表的な楽器の多くも竹製品です。尺八はマダケ、能管、篠笛には篠竹が使われるばかりではなく、雅楽の篳篥(ひちりき)は農家の囲炉裏の煙で300年以上いぶされて硬くなったマダケの天井材、竜笛(りゅうてき)もやはり長く用いられてきた民家の篠竹の天井材を使います。
そして、竹のしなりと軽さと強さを併せ持つ性質は、日本で最大の湯の湧出量を誇る日本一の温泉の町「温泉観光都市」大分県別府温泉の現在の姿をも形作ったのです。
明治初期の別府温泉は「専ら質素を旨とし、各所湯場の如きも概ね竹瓦松柱僅かに風雨を覆ふに過ぎざるもの多し」と記され、旅館は24軒のうち内湯があるのはわずか10軒にすぎないものでした。それが、温泉のボーリングに「上総掘り」による温泉掘削技術が導入され、明治の末には旅館は300軒近くに膨れ上がり、町有源泉26、私有源泉567という大規模化をとげたのです。
「上総掘り」とは、千葉県上総地方の内房地域(市原市・君津市・木更津市・袖ヶ浦市一帯)で、江戸時代末期から明治前期ごろに開発された、人力で掘抜き井戸を掘る技術です。それまでの人力による井戸掘削は、深くなるほど先端で掘りぬくノミの上げ下げへの負荷が大きくなり、人の力では30メートルがやっとでした。しかし上総掘りでは鉄製のノミを装着した竹ヒゴを「しゅもく」という頑丈な取手に止め付け、これを巨大な糸巻き車のような「ヒゴグルマ」に結びつけ、上げ下げに「ハネギ」とよばれるモウソウチクで作った長い弓木のテコを用い、500メートルもの深さまで容易に掘り進めることが可能となったのです。作業員は、ハネギの反発力を利用して数人がかりで「しゅもく」を上げ下げして、突くように穴を穿ってゆきます。
上総掘りはさらに別府の掘削で改良が加えられて、多くの源泉を噴出させ、昭和の中ごろまで使われてきました。今では世界中の発展途上国の井戸掘削に、人力で掘れる上に機材が竹や樫のみで軽量であることから盛んに利用されているのです。これを可能にしたのは、竹の強靭なしなりと軽さという性質に他なりません。
アジアのモンスーン地域という高温多雨の環境で繁栄してきた竹。「竹酔日」は別名「竜生日」。竹の樹幹(竹稈・ちくかん)の空洞は、かつて天に通じている道といわれていました。こじつけるのなら、水の恵みの神である竜が生まれることから、天からの雨を酒に見立て、竹もそれを浴びて祝い酔っ払う、という意味だったのでしょうか。
夏至ともかかわり、梅雨の雨を龍の恵みととらえたことから生じた民間信仰だったのかもしれませんね。

参考文献
植物の世界 朝日新聞社
参考サイト
別府温泉地球博物館・地球のはなし「上総掘り」
上総掘りの仕組みと歴史