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9月号朝日新聞編集委員 北野隆一 Kitano Ryuichi積み残された問題をたどり、顛末を見届ける
『朝日新聞の慰安婦報道と裁判』
朝日選書より発売中
新型コロナウイルス感染拡大に伴い、政府により緊急事態宣言が発出され、四~五月は在宅勤務が原則となった。その二カ月間の半分ぐらいを本書『朝日新聞の慰安婦報道と裁判』のゲラの点検作業に費やした。残り半分は、ヘイトスピーチ問題に関する連載企画のため、自宅から電話や通信会議システムを使ってのインタビュー取材にあてた。
多くの記者が刻々と変わる感染状況の取材に追われていたが、私自身は一定の専門分野を受け持つ編集委員なので、若いときのようにどんなテーマでもまず現場に行くようデスク(上司)から指示される立場ではない。しかし五月末の緊急事態宣言解除のころになると、「感染者や家族、医療従事者らに対する差別の問題について掘り下げてほしい」などとデスクから頼まれるようになった。
そのとき、改めてベテラン記者としての自分の役割を自覚した。大きな問題が燃えさかっている最中は、一線の若い記者たちが多数投入され、手分けして日々の動きを追う。しかし事態が落ち着いてくると、積み残された問題をたどり、顛末を見届ける記者の出番となる。いまの私が貢献できる場面は、主に後者なのだろうということだ。
私は本書の主題となる慰安婦問題や、北朝鮮による拉致問題の取材を担当してきた。どちらも複雑な歴史を持ち、朝日新聞が保守・右派から厳しく批判されることが多いテーマであり、今なお問題が山積している。自ら志願したわけではないが、行きがかり上、担当せざるを得なくなり、気がつけば長期間取材を続けている。
かつては慰安婦問題をはじめとする歴史や戦後補償の問題に取り組んだ先輩記者が社内に何人もいた。しかし今や、拉致問題とともに「だれかがやらなければならないが、社内で手を挙げる人が少ない」という状況となって久しい。
朝日新聞は、朝鮮人を慰安婦として強制連行したと述べた吉田清治氏の証言(吉田証言)の報道を2014年に検証し、「虚偽」と判断して過去の記事を取り消した。8月に検証特集記事が掲載されると、強い非難が巻き起こり、翌年には保守・右派の三グループから、「朝日新聞の慰安婦報道により日本人の名誉が傷つけられた」などとして、朝日新聞社に対する集団訴訟を起こされた。
私は2014年から慰安婦問題の取材班に参加し、取材を続けてきた。保守・右派による集団訴訟の法廷や集会に可能な限り顔を出して取材した。顔を覚えられ「朝日の記者がここにいます」と名指しで意見を求められたり、私だけ取材を拒否されて会場から追い出されたりした。
朝日新聞非難で盛り上がる報告会に朝日記者としてひとり身を置くことは、居心地の悪い経験だった。しかし「だれかここにいて、一部始終を見届ける者が必要だ」とも感じていたので、あえてパソコンを広げてパチパチと打鍵音を立てながら発言を逐一メモした。記事が大きく載ることはほとんどなかったが、代わりに詳細な報告のメールを社内関係者に送った。集団訴訟が2018年までにすべて原告側敗訴で終結したのを機に、これまでの報告をまとめて時系列に並べたものが、本書のもとになっている。
朝日新聞社を被告とした訴訟以外にも、米グレンデール市が建立した慰安婦少女像の撤去を求めた在米日本人らが米国の裁判所に提訴した訴訟もたどった。元朝日新聞記者の植村隆氏が西岡力・東京基督教大教授(当時)やジャーナリスト櫻井よしこ氏を提訴した名誉毀損訴訟の経緯も記した。保守・右派の主張については、語り口も含めて極力そのまま記録することを心がけた。
本文には八百個以上の注釈(後注)をつけ、書籍の掲載ページや動画掲載URLなどを可能な限り明示した。注をつけることは、朝日新聞紙上で「慰安婦問題を考える」と題する特集記事を掲載した際に始めた。新聞記事に注をつけること自体、異例のことだったが、朝日新聞の慰安婦報道を「虚偽」「捏造」とする批判がある中で、記述一つひとつについて典拠を示すことが必要だと考えた。
ファクトチェックも心がけた。勘違いや誤記とみられる発言や記述もできるだけ原文のまま引用したうえで、原資料にあたって点検・検証した結果の説明を注などで付記した。論争になった問題については、保守・右派の主張と朝日新聞社側の説明、裁判所の判断などを並べて対比。慰安婦問題に関心を持つ社内外の記者や研究者にとっての取材や調査の手がかりとなればと願っている。
慰安婦問題の報道についての「読める資料集」をつくりたい、という私の意図をくんでくれた編集者に感謝している。研究者たちが公文書や証言を掘り起こして解明してきた歴史や実態と、保守・右派の論客たちが展開してきた主張とを、読み比べてみてほしい。

