同年6月20日、岸川勝也との交換トレードでダイエーに移籍したことが野球人生を大きく切り開く。

「走者を背負ったほうが好きなんだ」と先発へのこだわりを捨てた吉田は、97年に中継ぎで49試合に登板して以来、リリーフの柱に定着。00年の69試合を最高に98年から6年連続50試合以上に登板と鉄腕ぶりを発揮した。

 98年は8月までにリーグ最多の17ホールドを記録した直後、故障離脱の岡本克道に代わって抑えに回り、10セーブを挙げたが、初タイトルの最多ホールドがかかっているとあって、「(岡本に)早く戻ってもらわないと」と気を揉んでいた(同年と01年に獲得)。

 00年もチームが48試合を消化した時点で24試合登板とフル回転。6月2日のロッテ戦では、9回1死満塁のピンチで福浦和也を遊ゴロ併殺に仕留めて史上11人目の1球勝利を記録し、「今日は楽をさせてもらったよ」と苦笑した。同年はオールスターにも初めて選ばれた。

 04年以降は出番が激減し、06年に戦力外通告を受けたが、40歳になった翌07年は、テスト入団したオリックスで2勝1セーブ8ホールドを記録。最後のひと花を咲かせている。

 巨人時代に二桁勝利を2度記録し、移籍先でも二桁勝利を挙げたのが、02年の自由枠・木佐貫洋だ。

 1年目に150キロ台の速球を武器に10勝を挙げ、新人王に輝いた木佐貫は、07年にも12勝を記録したが、08年後半以降、調子を崩し、登板1試合で終わった09年オフ、高木康成との交換トレードでオリックスへ。

 この移籍が吉と出て、翌10年は自身3度目の二桁となる10勝を挙げ、11年も開幕投手を務めた。

 さらに13年、3対2のトレードで3球団めの日本ハムに移籍した木佐貫は、同年5月20日の巨人戦で、球史に残る快挙とともに再び脚光を浴びる。

 移籍から4年目で初めて実現した古巣との因縁対決で、木佐貫は低めを丁寧に突く巧投で高校時代からのライバル・杉内俊哉に投げ勝ち、史上12人目の12球団勝利を達成。「節目の勝利より、ここ(札幌ドーム初勝利)で勝ててうれしかった」と笑顔を見せた。

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新天地で素質開花した“松井2世”