そのため、幕府内では老中が中心となって将軍継嗣について議論がされ、慶喜に白羽の矢が立てられた。しかし、慶喜が二つ返事で受諾することはなかった。家茂との将軍継嗣争いにも巻き込まれていたうえ、名君と謳われた家茂ですら、結局、混乱を収束させることができなかったということもあったかもしれない。あるいは、できる限り受諾を引っ張ったほうが、発言力が増すと考えていた部分もあったろう。いずれにしても、慶喜は徳川宗家を継承することは了承したものの、将軍に就くことは受け入れなかった。そうしたなか、孝明天皇が慶喜に将軍への就任を命じたことで、十二月五日、慶喜に将軍宣下が行われた。慶喜は、孝明天皇の権威を背景に、事態の収拾に乗り出したのである。

■徳川家の存続を目指す慶喜と倒幕派との駆け引きが続く

 将軍となった慶喜が進めたのが幕府の改革だった。それまで幕政は老中による合議という体制をとっていたが、陸軍、海軍、国内事務、外国事務、会計の部局を設け、その長官である総裁にそれぞれ老中をあてている。こうすることで、それぞれの老中が責任をもって対処することが可能となった。また、フランスの支援によって軍制の改編も行った。こうした一連の改革を、慶応の改革と呼ぶ。

 こうした慶喜の動きに対し、慶応三年(1867)薩摩藩では諮問機関として四侯会議を提案し、慶喜の動きを牽制しようとした。四侯会議に参加したのは、薩摩藩主の父である島津久光のほか、前越前藩主の松平春嶽、前土佐藩主の山内容堂、前宇和島藩主の伊達宗城である。しかし、薩摩藩の思惑とはうらはらに、慶喜は逆に四侯を牽制した。

 四侯会議で慶喜を牽制することができなかった薩摩藩の大久保利通や西郷隆盛らは、長州藩や朝廷内で幕府に批判的な公家と通じ、武力で討幕を計画するようになった。こうした動きを察知した慶喜は、前土佐藩主・山内容堂(豊信)の建白をうけ、慶応三年(1867)十月十四日、朝廷に対して大政奉還を上奏したのである。

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「倒幕」の大義名分を失わせる