今日が命日の紀伊国屋文左衛門 謎多きその人生とは (1/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

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今日が命日の紀伊国屋文左衛門 謎多きその人生とは

連載「あなたの知らない神社仏閣の世界」

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今も寛永寺根本中堂にかかる「瑠璃殿」の勅額(天皇の自筆の額)

今も寛永寺根本中堂にかかる「瑠璃殿」の勅額(天皇の自筆の額)

江東区・成等院に戦後再建された文左衛門の石碑

江東区・成等院に戦後再建された文左衛門の石碑

文左衛門の屋敷に勧請された「紀文稲荷神社」

文左衛門の屋敷に勧請された「紀文稲荷神社」

 有名人の割に詳しいことがよくわからない歴史人というのは数多いが、中でも今日4月24日(旧暦)が命日の紀伊国屋文左衛門ほど実際が不明な人も珍しい。文左衛門伝説で随一である「みかん船伝説」でさえ創作であるとする研究者もいるくらいなのだ。これは、文左衛門自身が自叙伝的なものを残すことを嫌ったためとも、当時他人のプライバーシーを侵害するような書物を禁止する触れ書きが出されていたこととも関係しているようだ。加えて、幕末に出された「黄金水大尽盃」(文左衛門を主人公に12年間も続いた長編小説)も大いに影響を与えてしまっている。のちに出版された「大日本人名辞書」にさえ、この小説による虚構が史実として引用がされているのだ。

●お大尽の最期は生活困窮者?

 このため、紀伊国屋文左衛門の実際については、今でも正確なことは不明なままだ。分かっていることは、八丁堀の材木商で大金持ち、吉原での豪遊が江戸中の噂となり、謡や狂言、俳句などに読まれ、やがては歌舞伎や浄瑠璃の演目に取り上げられるまでになった。時代は、5代将軍・徳川綱吉の治世。江戸の町には元禄文化が花開き、空前のバブルを迎えていたのである。

 この後、綱吉と老中・柳沢吉保に代わり、新井白石が登場した6代将軍・家宣の代にバブルは弾けた。文左衛門は引退を決め、深川八幡宮(現・富岡八幡宮)そばに隠棲、俳句を詠むなどして余生を過ごし、66歳で亡くなったとある。とある研究者によれば、「最後は生活に苦しみ、むかしの使用人から生活費の援助をうけたという」とも紹介されている。

●将軍交代が文左衛門の引退に

 家宣の将軍就任は、宝永6(1709)年、翌年には文左衛門は店を閉じている。まだ40歳の頃で、引退には早過ぎたろうが、彼の商売の根幹である、人脈と広告という2つの手法が封じられた以上、諦めが肝心と踏んだのだろうか。文左衛門は、吉原などでの振る舞いが世に知れ渡ることで知名度を上げていき、加えて柳沢吉保をはじめとした幕閣要人とのコネにより成功の階段を登っていった人物である。商人との親密な関係を断ち質素倹約を旨とした次代の政権内では立ち回れないことは火を見るより明らかだった。なお、研究者によれば、数年前に妻を亡くしたこと、息子の疱瘡罹患が引退の遠因のひとつとも考えられている。


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