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「世界の記憶」に登録! 上野三碑と朝鮮通信使が選ばれた理由

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山口県下関市の「馬関まつり」で披露された、朝鮮通信使を再現した行列 (c)朝日新聞社

山口県下関市の「馬関まつり」で披露された、朝鮮通信使を再現した行列 (c)朝日新聞社

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、昨年10月31日、世界の記憶に古代石碑群「上野三碑」と、国内12都府県と韓国にある江戸時代の外交資料「朝鮮通信使に関する記録」を登録すると発表した。第2次世界大戦中に「命のビザ」で数千人のユダヤ人難民を救った外交官・杉原千畝の資料「杉原リスト」は見送られた。毎月話題になったニュースを子ども向けにやさしく解説してくれている、小中学生向けの月刊ニュースマガジン『ジュニアエラ』に掲載された、文教大学生涯学習センター講師・早川明夫さんの解説を紹介しよう。

■日本文化を東アジアから見る貴重な資料

 上野三碑とは、飛鳥・奈良時代(7・8世紀)に建てられた群馬県(旧国名は上野国)高崎市にある山上碑、多胡碑、金井沢碑の総称だ。三碑はいずれも渡来人が集まって住んでいた地域に建てられた。石碑文化の起源は中国で、日本固有の文化ではない。三碑から漢字や仏教の広まりなど、朝鮮半島からの渡来人と日本との交流を知ることができる。

 朝鮮通信使は朝鮮王朝の国王から日本に派遣された使節団で、おもに将軍の就任祝いのために来日した。日本と朝鮮との国交は室町時代から開かれ、豊臣秀吉の朝鮮侵略によって断絶したが、徳川家康や対馬の宗氏の努力により回復した。家康が朝鮮侵略に加わっていなかったことも回復実現の要因となった。江戸時代、通信使は12回やってきたが、最初の3回は朝鮮侵略で日本に連行された捕虜を連れて帰っている。通信使一行は総勢400~500人くらいで、幕府は厚くもてなし、日朝関係は友好的だった。通信使が通った沿道には、使節団をまねた行列や踊りが、各地のお祭りの出しものとして今も残っている。

 今回登録された2件は、日本の文化を考えるとき、東アジア全体からの視点を与えてくれる貴重な資料だ。(解説/文教大学生涯学習センター講師・早川明夫)

【キーワード:世界の記憶(旧・世界記憶遺産)】
重要な歴史的資料や絵画などを保護するために、ユネスコが1992年に設けた。日本からは「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」「慶長遣欧使節関係資料」、藤原道長の日記「御堂関白記」など5件が登録済み。今回で7件となる。

※月刊ジュニアエラ 2018年2月号より


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