チームを完全に掌握していたマルティーノが続投してれば、今日のようなことにならなかったのは間違いない。協会は後任にエドガルド・バウサを据えたが、その成績は3勝2分け3敗で、大陸間プレーオフ出場圏の5位まで順位を落としてしまう。彼は2008年にリーガ・デ・キトの監督として、エクアドルのチームを初めてコパ・リベルタドーレス優勝とクラブW杯出場に導いて脚光を浴びた。14年には、母国のサンロレンソを率いて同大会を制覇。代表監督就任前は、ブラジルの名門サンパウロFCの監督だった。ライバル意識の激しいブラジルとアルゼンチンでは、選手はともかく、相手国の人間を監督に迎えることは稀だ。それほど、彼への評価は高かった。アルゼンチン協会は、サンパウロFCに多額の違約金を払ってバウサを引き抜いた。

 しかし、彼には代表監督の経験がなかった。毎日のように指導できるクラブチームと異なり、代表チームはトレーニング時間が限られている。結局バウサは、自分が望む戦術を徹底させることができず、オーソドックススタイルで戦わざるを得なかった。しかしアルゼンチン代表の戦力をもってすれば、それでも勝ち点はもっと稼げたはずだ。それができなかったのには、別の理由がある。

 代表のホームゲームは、ブエノスアイレスのリーベルプレート・スタジアムで行われるのが普通だ。しかし予選が中盤になると、ブラジルやウルグアイ相手の好カード以外は空席が目立つ。そのため協会は、チケットの売り上げを増やすため、会場をメンドーサ、サンファン、コルドバなどの地方に変更した。代表のキャンプ施設はブエノスアイレスに立派なものがあり、市内での試合の際は、そこからバスで直行する。スタジアムまでは、白バイの先導で約40分。しかし地方会場で開催する場合は、前日に飛行機で移動しなければならない。メンドーサやサンファンはチリに近く、ウルグアイへ行くより時間がかかる。つまり、ホームゲームの利は失われ、選手はアウェイゲームと同じスケジュールを強いられたのだ。バウサの就任期間中、会場がすべて地方だったのは不運なことだった。

次のページ