東近江市のノスタルジックな街並みに溶け込む「とび太くん」(Mahorova提供)
東近江市のノスタルジックな街並みに溶け込む「とび太くん」(Mahorova提供)
1973(昭和48)年、東近江市(旧八日市市)に設置された初代「とび太くん」(写真所蔵:東近江市社会福祉協議会)
1973(昭和48)年、東近江市(旧八日市市)に設置された初代「とび太くん」(写真所蔵:東近江市社会福祉協議会)
電信柱や壁の陰から次々と飛び出す「とび太くん」。でもいちばん手前はニセモノ(Mahorova提供)
電信柱や壁の陰から次々と飛び出す「とび太くん」。でもいちばん手前はニセモノ(Mahorova提供)
地元の市民イベントに参加する着ぐるみ「とび太くん」(Mahorova提供)
地元の市民イベントに参加する着ぐるみ「とび太くん」(Mahorova提供)
町へ出れば、みんなから写真撮影を頼まれる人気者「とび太くん」 (Mahorova提供)
町へ出れば、みんなから写真撮影を頼まれる人気者「とび太くん」 (Mahorova提供)

 ドライバーに交通事故防止を呼びかける立て看板、飛び出し坊や。電信柱や道路の角などから飛び出している子どもの看板を、一度は目にしたことはないだろうか?

 日本全国津々浦々、様々なバージョンがある飛び出し坊やだが、発祥の地は滋賀県といわれている。全国的に最も有名な元祖飛び出し坊やは、みうらじゅん氏によって「0系」と名付けられた、大きな瞳に七三分けの髪型が特徴の看板だ。本名は「飛出とび太」、通称「とび太くん」と呼ばれている。

 この飛び出し坊や「とび太くん」は、1973(昭和48)年、東近江市(旧八日市市)の社会福祉協議会の発注で、久田工芸の久田泰平氏の手により誕生した。紆余曲折を経て、現在の姿になったのは1975年頃だといわれている。当時出版されていた『マンガの描き方入門』を参考にしつつ、久田氏が手を加えデザインしたもので、現在であれば「パクリ疑惑」とネットで炎上しそうなエピソードだが、当時はそんなことを気にする人など皆無だった。そもそも交通安全立て看板「とび太くん」にだれも関心を抱いていなかったのだ。

 それがみうらじゅん氏によって「再発見」されたのは1980年代のこと。琵琶湖畔をドライブ中、民家の入口や石垣、電信柱の陰など至るところから次々飛び出す人型看板に「これはホラーやで!」と感嘆。以来、著作やイベントなどを通じて紹介。一部の人たちから注目を受けるようになった。

 2008年、飛び出し坊やの高いポテンシャルに着目したMahorova代表の川村潤市氏が調査を開始。しかし、古い話であるため調査は難航を極めた。結局、最初の制作者である久田工芸にたどりつけないままだったが、役所から許可を得て商標登録を行い、「とびだしくん」として携帯ストラップやTシャツなど、関連キャラクターグッズの販売をはじめた。(翌年、久田工芸が名乗り出たことで制作者が判明し、2010年に川村氏がその経緯をサイトで公開。ここで初めて飛び出し坊や誕生の秘密が明らかになった)

 再ブレイクの転機となったのは、川村氏がグッズ製作を発注していた工場が「こんなのもできるで」といって、着ぐるみを制作してきたことだ。オーダーもしていない飛び出し坊やの着ぐるみ、工場側のサービス精神というかもはや暴走である。ただでさえ広くないMahorova事務所の隅っこに転がる無用の長物。はっきりいって邪魔だ。この状況に業を煮やした川村氏がこれを着て地元のイベントに登場した。

 二次元から三次元へ。看板からゆるキャラへ。飛び出し坊やが変身を遂げた瞬間だ。

 これが子どもたちのみならず大人たちにも大ウケ。毎週のようにイベント参加依頼が舞い込んだのだ。ほどなくして活躍の場を、滋賀から日本全国へと拡大。CMやテレビなどでふなっしーやみうらじゅん氏と共演を果たすまでになった。最近では、交通安全防止のみならず、博物館に展示されたり、本の表紙を飾ったりするなど、滋賀を代表するキャラクターとして確固たる地位を築いている。

「飛び出し坊や『とび太くん』が誕生してから40年以上。ここ数年ゆるキャラブームとか言ってちょっとしたモテキに突入してますけど、そんなものにうかれることなく、これからも電信柱の陰から地道に交通安全を見守り続けてほしいですね」と川村氏は語っている。

(文・松岡宏大)