第11回 1950年代半ばの東京 ―復興と成長の狭間 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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第11回 1950年代半ばの東京 ―復興と成長の狭間

文・堺屋太一

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1952年頃の東京・日比谷交差点付近。路面電車、バス、自転車、歩行者で混乱していた(c)朝日新聞社

1952年頃の東京・日比谷交差点付近。路面電車、バス、自転車、歩行者で混乱していた(c)朝日新聞社

■都電、肥桶、駄菓子屋

 私が東京に来た1954(昭和29)年から55年にかけては「復興」から「成長」への転換期だった。まず東京に来て印象的だったのは、路面を走る都電と、街角に積まれる肥桶、それに駄菓子屋だ。もちろん、大阪にも赤い路面電車の市電があったが、東京の規模はずっと大きく、色は緑色だった。

 肥桶は大阪にもあったはずだが、私の通学路に当たる天王寺から帝塚山界隈では積み上げてあるのを見かけたことはなかった。下宿のおばさんに尋ねると「すぐ練馬のお百姓さんが取りに来ますよ」とのことだった。当時は練馬区には野菜農家が多かったのだ。

 そして駄菓子屋。あめ玉やせんべいを量り売りする店が数多くあった。大阪でも同様の店はたくさんあったが、大抵は公設市場や商店街である。恐らく私の下宿した早稲田近辺は「都の西北」、当時はまだ東京都心ではなかったのだろう。

 私が東京に来て3カ月ほどの1954年12月、長かった吉田内閣が倒れ、民主党の鳩山内閣ができた。鳩山一郎首相が東京一区の選出だったせいか、民主党首脳に三木武吉氏や河野一郎氏ら、早稲田大学出身者が多かったせいか、学生街は沸き立ったものだ。

■「戦後文化」はいまだ始まっていなかった

 その反面、「戦後文化」はまだはじまっていなかった。テレビ放送ははじまっていたが、テレビの受像機を持つ家庭はほとんどなく、ホテルのロビーや飲食店の客引き用だった。駅前の街頭テレビには何百人もが群がり、力道山のプロレスを見たものだ。

 テレビも乗用車も水洗便所も、まだ業務用の「資本財」だったのである。

 この頃、東京は急膨張中、全国から人々が流入、住宅地が広がっていた。学生だった私には経済や社会の巨視的な観察をする才覚はなかったが、路面電車で知り合った金髪女性のベートさんが教えてくれた。

「西洋ではフードアンドベッドといいます。食べ物が出回れば次は住宅。今に東京の土地は値上がりします」と。

 私はそれに釣られて不動産仲介業者のガラス戸に貼られているビラを眺めて見た。今も記憶しているのは近く地下鉄が開業する茗荷谷駅近くで「坪7千円」というものだ。もちろん浪人生の私にそれを買うお金はない。ただこれ以降、折に触れて不動産屋をのぞき、土地価格が毎年急騰しているのを感じた。

 私が父にせがんで文京区関口台町に80坪の宅地を購入してもらったのは6年後、通商産業(現経済産業)省への就職が決まった1960年6月のことだった。その時は坪単価6万8千円、ベートさんにいわれて最初に見た時に比べて約10倍になっていた。それから30年、バブル景気の頃ならさらに30倍にもなっていただろう。

■高度成長の裏目が来るか

 私が東京に来た1955年から90年までの35年間は日本経済の高度成長期だった。人口、特に18歳から65歳までの生産人口は急増し、国際競争力は伸びた。世界は資源や農産物は豊富で、どこからでも輸入できる「フリーハンドバイヤー」の日本は有利だった。それだけに日本の土地価格が急騰したのも当然である。

 しかし、1990年に日本のバブル景気が弾け、世界の冷戦構造が消滅したことで流れは変わった。今や日本は人口減少傾向、特に今年(2014年)には減若傾向が顕著になった。国際競争力も低下、貿易赤字国に転落した。今や日本は「土地余り人不足」の国である。

 高度成長期の裏目が来た―とすれば、土地の値段も裏目、下落傾向が続くのだろうか。それでもお金の値段の方が急速に低下するのだろうか。

(週刊朝日2014年10月10日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年」連載11に連動)


(更新 2014/9/30 )


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プロフィール

堺屋太一(さかいや・たいち)

 1935年生まれ。本名は池口小太郎。60年に通商産業省に入省し、大阪万博をプロデュース。退官後は作家・経済評論家として活躍。経済企画庁長官を務め、現在は内閣官房参与。主な著書に『団塊の世代』(文春文庫)、『平成三十年』(朝日文庫)など

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