第7回 敗戦直後の新聞 ―私も配達を経験 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

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第7回 敗戦直後の新聞 ―私も配達を経験

文・堺屋太一

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■発行され続けた新聞

 日本の敗戦、それが現実の姿になったのは1945(昭和20)年3月から49年3月までの4年間だ。45年3月から空襲が激しくなり、4月には沖縄での戦いがはじまり、特攻出撃が常態化した。そして原子爆弾の投下とソ連の参戦で戦争は終わった。

 しかし、物資の欠乏と公共機関の混乱、政府の統治能力の弛緩はそのあとがひどかった。食糧の配給は遅れ、ガスや水道がしばしば止まり、停電も珍しくなかった。

 敗戦と共に治安も乱れた。個人的な窃盗や強盗が横行したほか、集団での強奪暴行も現れた。

 そんな時期にも途絶えることなく発行されていたのが新聞だ。もちろん、用紙不足の当時、新聞も薄くなった。私の記憶では新聞紙1枚2ページが普通だったが、ほとんど欠けることなく発行され配達されていた。特に不思議なのは広告がいつもあったことである。

■敗戦前後の新聞広告

「モノがあれば何でも売れる」敗戦前後、一体どんな広告が出ていたのか。私の記憶にあるのは「一等10万円の勝札(宝くじ)」の広告である。朝日新聞の保存用縮小版で調べて見ると、あった! 何と昭和20年8月8日付の朝刊(夕刊はなかった)。一面見出しは「広島へ敵新型爆弾」である。同じ紙面に広告代理業の博報堂の社名広告も出ている。空襲の最中も広告取りに走り回っていた人もいたのだ。

 昭和20年8月15日付の朝日新聞、「戦争終結の大詔渙発さる」の横見出しの日の一面左右の広告は薬の「神命丸」と「ドイツ語通信講座―紅露文平」である。紅露文平はのちに私の通った大学受験予備校の経営者だ。裏面には「高島派易断」と「百貨店の御不要品買受」の広告がある。

 昭和21年から22年にかけてのモノ不足時代も新聞広告は続いた。広告の多いのは、薬品、書籍、興業(映画、演劇)、そして求人と会社の決算報告である。

 物資不足と物価急騰の中でも広告は続いていたのだ。

■中学生で新聞配達―はじめての所得

 1948(昭和23)年頃になると、多少は世の中がおさまり、新聞も見開き4面になった。それでも奈良県南葛城郡では各紙別の配達機構はなく、中学生が全紙を地区別に分担して配達していた。私も中学1年生と2年生の秋まで約1年半、50軒ほどに新聞を配達した。各戸に講読している新聞が書き出されており、それに合わせ配るのである。朝寝坊だった私は、しばしば中学校の昼食休憩中に慌てて帰宅、自宅に届いている50部ほどの新聞を配達したこともある。購読者には随分嫌な配達員だったに違いない。それでも毎月いくぶんかの配達賃は支給された。私が生まれてはじめての所得は新聞の配達賃金である。

(週刊朝日2014年9月12日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年」連載7に連動)


(更新 2014/9/ 2 )


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プロフィール

堺屋太一(さかいや・たいち)

 1935年生まれ。本名は池口小太郎。60年に通商産業省に入省し、大阪万博をプロデュース。退官後は作家・経済評論家として活躍。経済企画庁長官を務め、現在は内閣官房参与。主な著書に『団塊の世代』(文春文庫)、『平成三十年』(朝日文庫)など

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