マキキにある真宗ミッションでのBON DANCEの様子(写真提供:ダイアモンドヘッドクラブ)
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浄土真宗本派本願寺ハワイ別院
浄土真宗本派本願寺ハワイ別院

ハワイ大神宮
ハワイ大神宮

真言宗ハワイ別院
真言宗ハワイ別院

 今年2018年は明治維新から150年の年にあたるが、同様に集団移民150年の年でもある。明治元年5月17日に横浜港を出港した「サイオト号」には、ハワイへ向かう男女153人(異説もある)が乗船していた。彼らは、ハワイ政府と徳川幕府との間に結ばれた渡航許可をもとに準備をすすめていたが、同年1月の王政復古によって発足した明治政府がこれを許可しなかったため、パスポートも持たないまま無許可で出港した移民たちだった。

【ハワイにある日本の神社はこちら】

●「元年者」移民から150年

 これは、ハワイ政府が日本人の移民を強く望んだことから始まった政策であったが、日本の政変により「サイオト号」で渡った人々にとっては、あまりに苦難な道のりが待っていた。彼らのことをハワイの人々は尊敬の意味も込めて「元年者(GANNENMONO)」と呼ぶ。余談だが、ハワイ政府が日本人を―─と強く望んだ理由は、幕府がアメリカへ派遣した咸臨丸にある。帰路にハワイに立ち寄った咸臨丸を見たハワイアンたちは、日本籍の船を日本人だけで操船していた姿に感動し、そんな日本人たちの労働力を強く望んだのだという。

●日系移民たちの大移動

 元年者たちの中には、その過酷さに耐え切れず帰国したものもいたが、明治18年に新政府との間に条約が交わされると、ハワイへの移民が正式に許可されるようになる。明治27年に移民業務が民間へ移る10年あまりの間に、3万人弱の人々がハワイへ移住、明治41年にブラジルとの間にも条約が結ばれると、以降13万人もの日本人がブラジルへと渡っている。ほかにもメキシコ、グアテマラ、カリフォルニア、ペルー、アルゼンチン、ボリビア、チリなど各地へ移民政策が進められた。

 明治維新後、日本経済は疲弊し食料は不足、ちまたには生活困窮者があふれていた。新政府にとって人口削減策としての移民は、格好の政策だった。また、民間委託に移ってからも、魅力的な広告で仕事にあぶれていた人々を集め、多くを知らせないまま海外行きの船に乗せるという行為を繰り返した。

●移民たちを待っていた過酷な生活

 現地の生活は悲惨きわまりなかった。農地として与えられた場所が荒地であるのはまだマシなほうで、到着した日の寝食にも欠く人も多かったという。それでも日本には戻れないと決心した移民たちは、各地の産業に尽力する。ハワイのコーヒー、ブラジルの紅茶など、それまで作農は無理と言われてきた農産物の育成に成功した。ほかにも日本から持ち込んだ苗を品種改良し、多くの農産物を生み出し続けている。

 こんな人々の心のよりどころは、日本から持ち込んだ宗教だった。仏教、神道をはじめさまざまな信仰心を持ち寄り、励ましあった。

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海を渡った日本の信仰