北条氏の文学的才能を高く評価し、彼女の方法論を擁護する意見も少なくなかった。

 いまのところ、新潮社からの批判に対して、講談社はそれを真摯に受け止め謝罪するという経緯を辿っている。

 そこで思い出されるのが、2012年、講談社ノンフィクション賞の選考である。

 このとき、石井氏の『遺体』が候補作となったものの落選するが、選評でかなり厳しく批判されている(以下、講談社「g2」vol.11から引用)。

「中身の評価以前に、『遺体』の描き方はいくらなんでもおかしいでしょう。これはノンフィクションではなく、ほとんど小説のように思えます」(立花隆)

「三人称によって物語化した『遺体』のような手法が、果たしてノンフィクションとしてOKなのか。わたくしは読者として、たいへんな違和感を覚えました」(髙村薫)

 2人はノンフィクションではないと決めつける。

 もっとも厳しい意見がこれだ。担当編集者にも矛先を向けている。

「この人は、社会的弱者への共感ではなく、むかしの見世物小屋的な指向で題材を選んできたような気がします。しかも徹底的に取材しているわけでもない。(略)このようなテーマでのノンフィクションの量産は事実上不可能なのに、なぜ次から次へと出せるのか。ようするに単なるネタ扱いで、苦しむ人々に正面から真摯に向き合っていないためではありませんか。(略)こうした諸点を見抜けない編集者たちの眼力に対して、私は強い危機感を覚えます」(野村進)

 この選評に対して、石井氏、新潮社からのリアクションはない。が、悔しかっただろう、さぞ腹が立ったであろうことは想像できる。

 講談社主催の賞である。講談社のノンフィクション観を示す一端と見ていい。
 
 一方、新潮社はノンフィクションのあり方についてはこう考えている。

「ノンフィクション作品は、単に事実を羅列しただけのものではありません。その一行一行を埋めるため、足を使い、汗を流して事実を掘り起し、みずからの感性で取り上げるべき事実を切り出し、みずからの表現で懸命に紡いだ、かけがえのない創作物です」(同社ウェブサイト 7月6日)

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新たな遺恨に?