戦時中に女優・歌手の「李香蘭」として活躍し、戦後は参議院議員を務めた山口淑子さんが、2014年9月7日に心不全で亡くなった。享年94歳。
週刊朝日は連載「昭和からの遺言」のなかで、08年に山口さんにインタビューを行っている。その内容を一部抜粋して再掲する。
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―― 中国人歌手としてデビューし、戦後は国際派女優、さらには参議院議員として昭和を生きた山口淑子さん(88、インタビュー当時)。それぞれの顔で出会った人々のスケッチが、時代を浮き彫りにする。
昭和23(1946)年に『わが生涯のかヾやける日』(吉村公三郎監督)で、日本映画界に再デビューした直後のことです。巡業先の長崎でのことだったと思うのですが、劇場に、17、18歳の男の子たちが怒鳴り込んできて、劇場支配人に「仁義を切らないと、緞帳を落とすぞ」と、脅しをかけたんです。
私は、ちょうど『わが生涯……』でベランメエな口調のキャバレーの女の役をやったばかりだったんですね。楽屋の畳に短刀を突き刺してすごむ少年たちに、
「何様だと思ってやがる。仁義が聞いてあきれるよ。おめエさんたちに挨拶しなけりゃ働けねえような女とは、訳が違うんだ」
って、つい映画のセリフで啖呵を切ったのね。そしたら、その男の子たちが、
「へエー、姉御、おみそれしやした」
と、ひれ伏しちゃって。それからが大変。私の親衛隊になっちゃって、行く先々について歩くの。それで「あなたたち、いったい何なの」って、聞いたら、「教えてください」っていうの。おれたちは特攻隊で死ねって訓練されてきた。死ぬことだけを教えられてきた。戦争が終わったいま、どうやって生きていけばいいんですか、何をしたらいいんですか、教えてくださいって――。
まだ17、18歳の男の子たちが、戦争で受けた心の傷に苦しんでいるんだなと思いましたね。
――「傷」に苦しんだのは、山口さんも同様である。旧奉天近郊で生まれた日本人・山口淑子は、昭和13(38)年、満州映画協会(満映)にスカウトされ、中国人女優・李香蘭となる。『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』の“大陸三部作”などでスターダムに。戦後、これらの国策映画への出演が漢奸(祖国反逆者)の罪状にあたるとして、死刑の噂も流された。
私が、この”大陸三部作”を初めて見たのは、自伝の『李香蘭 私の半生』を書こうとしたときですから、昭和61(86)年ごろのことです。当時はスケジュールに追われて、見る時間がなかったんです。
見終わったあと、泣きました。こんな映画に出ていたのかと、私自身、無知と愚かさが口惜しくて、三日三晩寝れませんでした。あんなに中国を見下して、日本を礼賛する映画に協力していたのか、と…。