一生懸命にがんばろうとはしない。「汗を流す」が似合わない。そんなスチャダラパーが、デビュー30周年を迎えた。「ほどほど」に進むメンバーたちに魅了されるのには、理由がある。
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ラップを始めたきっかけは、1987年のビースティ・ボーイズの来日ツアーだった。
「彼らは楽器も弾かずに叫んで暴れてるだけで、これなら自分たちにも出来るかもと思いました。でも、実際やってみたら難しくて、当たり前ですが、ビースティも、ただ暴れていただけじゃないということが、わかりました」
ヒップホップグループ「スチャダラパー」のボーズ(51)が、そう振り返る。
東京・原宿の桑沢デザイン研究所で出会ったアニ(52)とボーズが、アニの実弟・シンコ(49)をDJに加えて88年に結成した。ヒップホップという文化が日本であまり知られていなかった時代に、DJコンテストで「太陽にほえろ!」のテーマソングをアレンジした曲がバカウケすると、90年にアルバム「スチャダラ大作戦」でデビュー。その翌年には人気ゲームソフトのCMソングを担当し、たちまち話題になった。
デビューから一貫してメジャーとマイナーを往還してきたが、変わらないのは「ユーモア」だ。これは冒頭のビースティ・ボーイズもしかり。人種差別などで虐げられていた黒人たちの間に広まったヒップホップのカルチャーに、白人3人のビースティが“何でもあり”と“ユーモア”で爆発的な人気を得た。
「それまでラップは黒人のものだと思っていたから、パンクの流れからビースティが出てきたのはいいなと思った。それに、ラップは身一つでできるハードルの低さがある」(アニ)
日本語ラップの“創始者”いとうせいこうやタイニー・パンクス(藤原ヒロシ、高木完)といったラッパーたちは、80年代後半のポストパンクの文化圏──近辺にはパルコ文化や小劇場ブーム、少し遅れて裏原宿のストリートファッションの動きもあった──にいた、ある意味「文化系」。そんな彼らに見いだされたのがスチャダラパーだった。
音楽ジャーナリストの柴那典(とものり)さん(43)は、こう指摘する。