批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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小中高の始業・入学時期を変更する「9月入学」が話題になっている。
9月入学自体はかねてより議論されていた。それがここに来て注目されたのは、新型コロナの影響で休校が長引いたからである。これを機に1学期をまるまる休学、9月を年度開始にすれば問題ないというわけだ。4月末に東京都の小池百合子知事と大阪府の吉村洋文知事が支持したことで火がつき、NHKの世論調査(5月19日発表)では賛成が反対を上回った。
けれども現実はそう単純ではない。9月入学は国際標準だといわれる。しかし単純に後ろにずらすのでは義務教育の開始も遅れ、国際標準からむしろ遠ざかる。そのぶん待機児童も増える。ずらすとしても移行期をどうするかの問題がある。5年のあいだ学年を13カ月に延ばし調整する案、小学ゼロ年生を新設する案などが検討されているが、素人目にみても混乱は免れない。そもそも実施には30以上の関連法の改正が必要となる。コロナ対策で教育現場が混乱を極めているいま、今年来年で実施するような政策では絶対にない。
幸いなことに22日には日本教育学会が反対を表明し、27日には自民党のワーキングチームが導入見送りを提言する見通しになった。9月入学論はこのまま消える可能性が高い。
それにしても問題は、このような暴論がなぜ一時ではあれ支持を集めたのかである。おそらく背景にはポストコロナへの焦りがある。
人間は無駄が嫌いである。だからみなコロナ禍から教訓を引き出し、変革に生かそうと必死である。たしかに押印廃止や行政のオンライン化推進のようになすべき改革は多い。けれどその欲望が暴走するとかえって社会を害する。そもそも災害で社会が変わるという言葉は聞こえがよく、人気取りに便利だ。実際今回の提案は文部科学省からでも教育現場からでもなく、ポピュリストの知事たちから現れている。支持率対策として差し引いて聞くべきだろう。
コロナ禍はまだ終わっていない。秋以降も長い休校があるかもしれない。ポストコロナの夢に踊らされ、現場の疲弊を招いている場合ではないのだ。
※AERA 2020年6月8日号