大台まで「あと2キロ」に迫った伊良部は2死後、伊東勤の打席で夢に挑戦する。投げた瞬間、「右肘がぶっ飛ぶような感じだった」渾身の1球。160キロ以上を確信した伊良部だったが、なぜかスピード表示は出ず、日本人初の快記録は幻と消えた。

 翌94年、伊良部は「今シーズン中に160キロの速球新記録に挑戦することを誓います」と宣言。公式戦の記録ではないが、7月19日のオールスター第1戦の初回、松井秀喜(巨人)の5球目に159キロをマークしている。

“幻の160キロ投手”は、もう一人存在する。派手な金髪で話題を呼んだ前田勝宏である。

 舞子中時代に神戸市大会の優勝投手になり、県内の名門10数校からスカウトされたが、「新しい学校で、自分で伝統を作って、自分の力で甲子園に行ったろう」と、開校間もない神戸弘陵へ。

 だが、入学早々肩を痛め、監督にオーバースローから野茂風の変則フォームに改造するよう命じられた結果、ノーコン病に。それでも2年間愚痴ひとつこぼさず、新しいフォームに挑みつづけたが、3年の春、ついに「悪くなってもいいから、最後に元のフォームでやらせて」と直訴。これが立ち直りのきっかけとなり、同年夏に甲子園初出場をはたした。

 プリンスホテル時代の92年、日本選権決勝の東芝戦で156キロをマーク。同年のドラフト西武に2位指名入団も、3年間で0勝2敗、防御率4.89、38回2/3で41与四死球と制球難を克服できなかった。

 95年オフ、ハワイのウインターリーグで非公式ながら100マイル(約161キロ)をマークした前田は、野茂英雄の活躍にも刺激され、メジャー挑戦を決意。高校時代の恩師も評した「頑固な性格」そのままに、翌96年の開幕直前まで球団ともめた末、「チームの和を乱す者は不要」と退団が認められ、ヤンキースと契約。主に2Aで投げ、98年には3Aに昇格するが、メジャー昇格と160キロの夢を果たせないまま、00年に退団帰国した。

 その後、中日や台湾、イタリア、中国、社会人、国内の独立リーグなどで39歳まで現役を続けた。

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「日本で初めて160キロを投げるのは、この男」