●2人の天下人の怒りを買った比叡山
さて、翌年の9月12日(旧暦)に信長は延暦寺の焼き討ちを命ずる。この時の信長軍が対峙していたのは、挙兵した三好三人衆と石山本願寺、そして信長を裏切った浅井・朝倉連合軍で、敗走した浅井軍をかくまったのが延暦寺だったのである。信長の和睦の提案を延暦寺は拒否、一晩のうちに比叡山は3万の兵に囲まれたという。信長軍が陣を置いたのが比叡山の麓にある園城寺(おんじょうじ/別名・三井寺)、ここは延暦寺のありように不満を持った最澄の弟子たちが袂を分かって、延暦寺の創建から100年もしないうちに起こしたお寺である。園城寺の創建以来、延暦寺との間で数十回に及ぶ焼き討ちなどを含めた争いが続いていた因縁の関係を信長は利用したのだ。皮肉なことに延暦寺は天下人により焼き討ちされ、園城寺は守られるのだが、次代の豊臣秀吉の怒りを買った園城寺は、ほとんどの伽藍と寺宝を破棄され、逆に延暦寺へ金堂(本尊の安置殿。本堂を意味する)の移転を強要された(現在の延暦寺・西塔[さいとう]の釈迦堂)。延暦寺と園城寺は、2人の天下人にしばらくは立ち直れないほどの打撃を与えられたのである。
●延暦寺焼き討ち話の効果
最近の研究では、信長の比叡山焼き討ちの被害は、過去に言われるほどのひどさではなかったのではないかとも言われている。宗派同士の争いの中で、延暦寺はすでにかなり荒廃していたとも考えられていて、「焼き討ちから逃れられたのは西塔のはずれに建つ瑠璃堂だけ」と伝えられるが、すでにそれほどの伽藍が残っていなかったとの研究もある。信長側も被害を大きく語り次ぐことで、他の大寺に対して恐怖心を与える効果を狙っていたのかもしれない。
ところで、延暦寺から逃げ延びたものたちは甲斐の武田信玄を頼ったという。そういえば、信玄亡き後、武田勝頼は信長軍により悲惨な最期を迎える羽目に陥った。これにより延暦寺の主流の末裔はことごとく絶たれたに違いない。根本中堂(総本堂)の再建は徳川家光の時代になってからである。
それでも、実際に信長は比叡山に関連する一帯のお寺を次々と焼いた。琵琶湖の対岸に位置する子院にさえ火をかけたのである。ところが、のちに比叡山の宝物殿と言われることになる聖衆来迎寺だけは見逃したのだ。浅井・朝倉軍との戦いによって戦死した森可成(森蘭丸の父)の墓があったためと伝わる。この付近で最期を遂げた可成の亡骸を、天台宗のお寺でありながら当時の住職が密かに寺内に運び込み、葬ったのだという。このような配慮を見せた信長が、果たして女子供を含めた数千人の人たちの首を刎ねただろうか。
石山本願寺が信長に戦いを挑んだ日と同じ日に、延暦寺に火をかけたのはやはり信長独特の演出があったような気がしてならない。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)