宮藤:そのためには東北弁がいいっていうことですね。
若竹:はい。東北弁のユーモアというか、厚みというか。昔の人は漢語的な言葉も使ってました。「60になんなんとする」とか「不調法でございます」とか。
宮藤:あ、不調法って、よく母親が言ってました。
若竹:「ぶちょほ」でしょ。「ぶちょほしました」とか。
宮藤:はい。無礼とも違うし、失礼しましたとも少し違う。
若竹:そう、そう。
宮藤:嫌だって言わず、「やんだ」って言いますよね。
若竹:うちの方は「やんた」。
宮藤:ソフトにしたんじゃないかと思うんです。「嫌だ」と言うと角が立つから、ちょっと優しくしようとして「やんだ」になったんじゃないかなって。「わがんね」も言いますよね。
若竹:勉強さねば、わがんねー。勉強しないと駄目だ、ですね。
宮藤:駄目という言葉が強すぎると思ったんじゃないですかね、東北の人。こういうこと、宮城にいた時はあんまり考えなかったんですけど、東京に出てきて、標準語に変換しながら、なぜああいう言葉を使っていたのかを考えるようになって。
若竹:わかります。私もそう。岩手にいた時は、言葉が嫌で嫌で仕方がなかった。
宮藤:恥ずかしかったですよね。
■「私は」と「おら」の違い
若竹:でも今は、親とか風景とかそういうものも含めて、東北弁の温かさみたいなものがとても懐かしい。そしてね、私の場合は、本当の自分の底を知るためには、東北弁なの。
宮藤:ルーツということですか。
若竹:そうでなく、ほら、人の心っていろいろ積み重なって、本当のところが見えなくなってるでしょ。自分の本当の思いを探る時、「私は」と言うと体裁ぶった私。「おら」って言うと、本当のちっちゃい頃からの私の心が現れるの。
宮藤:僕は作品の中で方言を使う時、最初は東北弁はやめようと思ってました。関西弁とか九州弁は書いたけど、東北弁は「あまちゃん」まで書いてなくて。自分の「底」を見られるような気が、多分していたんですね。
若竹:私は内に隠していた東北弁を「あまちゃん」で聞いて、触発されました。町田康さんとか石牟礼道子さんの方言で書かれた小説にも。標準語のようにすっと読めない分、熱い思いが伝わりますよね。