批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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年の瀬に不愉快なニュースが飛び込んできた。大手健康食品メーカーDHCの吉田嘉明会長が、同社の公式サイト上に在日韓国・朝鮮人へのヘイト丸出しの発言を掲載していたというのである(発言は11月付)。
発言はライバル企業への下品なあてこすりも含み、社会通念上許容できるものではない。批判が相次ぎ、ネットでは不買運動も起きている。当然の反応だといえる。
とはいえ、残念ながら謝罪や撤回の可能性は低い。DHCは保守系ネット番組のスポンサーとして知られ、会長は過去にも同様の発言を繰り返している。にもかかわらず、同社の売り上げが落ちたり会長が信用を失ったりしたという話は聞かない。発言は社会通念上許容されないと書いたばかりだが、実際には問題なく許容されているのが日本の現状だ。
差別はどの社会にもある。しかしふつうは表立った差別は避けるという常識が存在する。隠れた差別も問題だが、隠さなければという意識はあるていど抑制にはなる。ところが今の日本ではなぜかその常識が働いていない。とくに在日に対して働いていない。だから大企業の会長が堂々と差別を公言するし、表現も極端であればあるほど歓迎される。これはたいへん危険な状況である。
この状況をどうしたら変えられるだろう。むろん発言者への抗議は行うべきだ。啓蒙や法的規制も必要だろう。しかし同時に思うのは、上品下品の感覚を取り戻すべきではないかということである。
最近はみな言葉が汚い。「正義」のためならいくら相手を罵ってもいいし、汚い言葉も許容される。そういう価値観がネットを中心に広まっている。それは左派も変わらない。たしかにリベラルはヘイトを批判している。しかしその批判が罵倒とともに行われれば、右派はますます極端な主張を繰り出すようになる。いま起きているのはそういう悪循環だ。それにマイノリティーが巻き込まれている。
かつてはみな下品と見られることを恐れていた。それが抑制を生んでいた。その常識を取り戻し、まずは罵倒のインフレを止めることが状況改善への第一歩のように思う。
東浩紀(あずま・ひろき)/1971年、東京都生まれ。批評家・作家。株式会社ゲンロン代表。東京大学大学院博士課程修了。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。93年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2・0』『観光客の哲学』など多数
※AERA 2020年12月28日号-2021年1月4日合併号