それから10年後、日本でも法改正されてビールの規制緩和が行われた。ご当地ビール会社が続出し、地ビールブームが到来する。帰国して軽井沢の旅館を継いでいた星野も潮流に乗るが、地域性に依存した地ビールとは一線を画した。「最初から家庭内消費を目指したんです。家庭の冷蔵庫に入る大きさの缶で、家庭にふさわしい値段で提供する。規制緩和を契機に本物のビールの世界をつくろうと考えました」と星野はふり返る。

 96年、ヤッホーが設立され、ドイツの醸造設備を導入して創業の準備に入った。

 そのころ、井手は自ら「5年周期説」という人生の節目を迎えていた。5年制の国立久留米工業高等専門学校を卒業した井手は、上京し、録音・再生機器のメーカーに就職した。フロッピーディスクの小型化に伴う機器の設計に携わり、担当機種が世界シェアのトップに躍り出る。5年勤め、やれる仕事はやり切った気がして辞めた。土木関係の環境アセスメント会社に転職したが、イメージと現実のギャップに戸惑い、7カ月で退職。自分さがしの日々に危機感が募り、自然が豊かな長野への移住を決める。軽井沢で観光客向けのタウン誌を発行する広告代理店に入った。快活で人懐っこい性格は営業向きだったが、経営者とぶつかってまたしても職を辞す。さて、次はどんな仕事に就こうか、青年海外協力隊か、山小屋で働くのもいいかな、などと思案していたところに「会いませんか」と星野から声がかかる。星野は井手が代理店で担当していた老舗旅館の社長だった。軽井沢に移り住んで5年が経とうとしていた。

 井手と会った星野は眼鏡の奥の目を輝かせ、ビールづくりの夢を滔々と語った。井手は星野のカリスマ性に魅入られる。「醸造所がいま建築中だから一緒に見に行こう」と誘われ、星野が運転する四輪駆動車で佐久市に向かった。晴れ上がった冬空の下、基礎に鉄骨を組んだ建物に青いシートが揺れていた。「こっちがオフィス、こちらに醸造窯が入る予定だよ」と星野は満面の笑みを浮かべて案内した。規模の大きさに井手は驚き、胸が躍る。すぐに入社を決めた。

(文・山岡淳一郎)

※記事の続きはAERA 2021年1月11日号でご覧いただけます。

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