作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は、慰安婦問題について。問題が解決されない理由について、北原さんはフェミニズムの視点で分析し、社会に提言する。
【画像】当時の朝日新聞。1993年8月4日の「河野談話」を伝える紙面
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今年は韓国人の金学順(キム・ハクスン)さんが「慰安婦」であることを名乗り出てから30年という節目の年になる。
金学順さんが名乗り出たとき、私は大学生だった。「慰安婦」のことは、石坂啓さんのマンガなどで“表現物”として知ってはいたが、当時の感覚としては、まさか当事者が顔と名前を出し、日本政府を訴えるとは全く想像もできないことだった。
金学順さんは1991年8月14日に韓国国内で名乗り出た。今に連なる#MeTooの原点の日として、この日を国連記念日にする動きがあるが、実はこのとき、日本の主要メディアは金学順さんのことをほぼ報じていない。金学順さんの名が一瞬にして日本社会に広まったのは、その年の12月、植民地時代の被害を訴える元軍人やその遺族らとともに日本政府を訴えたときだ。
当時のメディアは、元「慰安婦」が名乗り出た、という一色に染まったものだった。連日、金学順さんが涙ながらに過去を語る姿が報道され、メディアは金学順さんの人生を追った。それまで “戦地のロマン”として、またはどこか正面から語ってはいけない“恥”のように語られてきた歴史が、「あれは性暴力だった」と訴える被害者が現れたことに、日本社会は激しく動揺したのだ。
当時の日本は世界で一番お金持ちの国だった。軍事政権から解放されて間もない韓国の生活水準は貧しく見えた。畑の真ん中の物置小屋に暮らしているような被害女性たちの姿が報道されると、「まずは生活費を援助したい」というような空気も生まれた。政府と民間が協力した「償い金」が国民の寄付で集められたが、日本政府からの賠償金ではないお金を受けとらない当事者は多数いた。彼女たちは生活費ではなく、謝罪を求めていたからだ。