上半身の力が強く、少し“野手投げ”という感は否めなかったが、フォームのバランスは決して悪くなく、与えた四球も1つとコントロールも安定していた。また先発投手が突如崩れて、守っていたライトから急遽マウンドに上がるという緊急登板だったが、それでもいきなり140キロ台をコンスタントにマークし、ノーアウト満塁のピンチを三者連続三振で切り抜けているところには気持ちの強さが感じられた。馬力を生かしてリリーフ投手として勝負するという選択肢もあったのではないだろうか。

 万波のピッチングを初めて見たのは中学3年夏で出場したリトルシニアの全国大会。当時から190cm近い長身で注目を集めており、スピードは137キロをマークしている。横浜高校に進学後も1年夏の神奈川大会でホームランを放つなど早くから頭角を現していたが、タイミングをとる動きがなかなか安定せず、見る度に打ち方がよく変わっていた。特にどん底だったのが3年春で、変化球を投げておけばまず当たらないという打席を繰り返し、見ていたこちらが正直頭を抱えたものである。

 一方で投手として出場する機会は少なかったものの、2年夏の甲子園ではリリーフで短いイニングの登板ながらストレートのスピードはコンスタントに145キロを超え、その勢いは目を見張るものがあった。結局野手としての将来性を評価されて、現在ではチームで期待の若手になっているが、投手を選択した方が良いのではという声もあったことは間違いないだろう。

 ここまで紹介した3人は高校からプロ入りしているが、大学まで投手と野手両方の可能性を模索していた珍しい例が岡大海(ロッテ)だ。倉敷商時代からどちらかというと投手として評判の選手であり、明治大に進学後もまずは投手としてデビューし、150キロを超えるスピードもマークしている。コントロールがなかなか安定せず、運動能力を生かすために4年時にはほとんど野手でのプレーとなったが長身から投げ下ろすストレートは東京六大学の中でも目立つ存在だった。明治大のような選手層の厚いチームではなく、力のある投手が少ない大学に進んでいれば、将来が変わっていたことも十分に考えられるだろう。

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過去にはプロで野手→投手のコンバート