「こんなこと、もうやめて! やめて! I want to stop this!!!」
ウィシュマさんはスリランカで英語の先生だった。外国語を生きる糧にしようと学ぶ女の子は、「今ここにはない世界」への強い憧れと好奇心、自分の力で人生を切り拓いていこうという自信と野心と希望に満ちているものだ。スピーチに立ったウィシュマさんの親友は、高校時代の彼女との思い出を「大人が見たら顔をしかめるようなことをいっぱいしました」と懐かしむように語っていた。ウィシュマさんがどれほどユーモアにあふれ、どれだけ自分を笑わせてくれる存在だったかを語った。スリランカも男尊女卑の激しい国だ。そういう世界で「女の子らしくない」とされるいろんなことを、冒険するように、女友だちと未来に向かって笑っていたウィシュマさんの時を思う。DVを受け、人生を奪われて、誰にも守られず、死に至るまで放置されていく絶望は、残された者を生涯捉えて離さないほど深く、残酷だ。そしてその痛みを決して他人ごとだとは思えないほどリアルに感じられる日本を生きる私たちには、十分責任があるのだと思う。
ウィシュマさんの友人、支援者、妹たちの「日本政府は真実を明らかにしてほしい」の声に、答えられる力は“あの人たち”にあるだろうか。
帰宅後、SNSを見ていたら「偲ぶ会」で献花をしてきたという男性が書き込んでいるコメントが目に入った。彼によれば、築地本願寺から駅に向かう途中で東京オリンピック・パラリンピック反対の抗議署名活動をしている女性がいたという。男性は「初老の女性が無粋なことをやっていた」と怒りを込めて書き込んでいた。今日はウィシュマさんの死をただひたすら悼む日なのに運動を持ち込むな! ということらしい。あまりに強い勢いで書かれていたので、見ず知らずの男性のコメントだったが思わず考え込んだ。
ただ悲しみたい。そういう思いは私にもある。男性の言わんとしていることも分からないでもない。でも、「今日は悼む日、以上」という単純な心理なんてあるのだろうかと、その男性のロマンチシズムに、私はいらついたのだと思う。ただ悼む日、と線で切り分けられるようなことができるだろうか。だって、なぜなら、全てがつながっていますよね、そことそこ。それに「初老の女性」とあえて書く男性のエイジズムやミソジニーも気に障った。こういうところだよ! 全部、つながっているように見えるんだよ。女性差別、性暴力、白人以外の外国人を徹底的に差別できる振る舞い。私は、彼の言う「初老の女性の署名活動」には出くわさなかったが、もし「偲ぶ会」の帰りにその署名活動を見たら、迷わず署名をしただろう。ウィシュマさんの死と、私のいるところは地続きだから。エリザベスさんの「I want to stop this!!」の絶叫は、私の叫びでもあるから。会ったこともないウィシュマさんとのお別れに行きたいと思ったのも、ウィシュマさんの人生が私の今と切り離せないから。