
一人芝居の第一人者であり、映画やドラマで活躍を続けるイッセー尾形さん。古希を迎え、節目となる一人芝居「妄ソー劇場・すぺしゃる vol.4」公演を前に、自身の道のりと芝居への想いを語ってもらった。
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10年前にフリーになってから夏目漱石や太宰治ら明治・大正・昭和の文豪を通して作品をつくってきましたが、今回は久しぶりに現代に戻り、今まで演じてきた人物を蘇らせる特別な演目です。といっても、同じことはしません。コロナ前と後でも世界は違うし、なにより新しいことをやらないと、自分も楽しくない。自分がおもしろがらないことは相手に通じない。自分も知らないことに自分を立ち会わせる。それがおもしろくて、芝居をやり続けているんです。
――1980年代から一人芝居でバーテンダーやサラリーマンなど「いるいる、あるある!」な市井の人々を創作し、演じ続けている。同時に映画やドラマでも活躍を続ける。昨年はアルチュール・アラリ監督が小野田寛郎氏を描いた映画「ONODA 一万夜を越えて」でも抜群の存在感を放った。
あの映画では自分の中に演技の「ニュアンス」がどれだけあるんだろう?と改めて思いました。監督は日本語がわからないから演技を音などのニュアンスで感じ取っているんです。「OK! でもほかのニュアンスでもやってみて」と何度も言われて、延々と演じ続けた。やれと言われれば無限にできるんです。でもいい加減「いつまでやるんだ?」とは思いましたけど(笑)。
――2016年にはマーティン・スコセッシ監督の「沈黙-サイレンス-」に出演。キリシタンに棄教を迫る悪役・井上筑後守を柔和な物腰と笑顔で表現し、残忍さを際立たせた。
あれはね、井上筑後守が最初にキリシタンを探しに村に行くシーンの台本に「ピクニック気分で」と書いてあったんです。それで「そうか」と思った。それに日本人は海外の人には真意を測りにくい微笑みをするでしょう。それをあえてやったんです。本当に怖いものって表層と逆のところにあるんじゃないかと。