世の中はたしかに暗いことや腹の立つことが多く、梅雨は晴れても、一向に明るくもさっぱりもしませんね。

 小学校を出て、私は県立の町の女学校に入学しました。入学試験がありましたが、私は一番で入学しました。

 入学式で、上級生からの祝辞に対して答辞を読み上げたりして、私は結構花形気取りに浮き上がっていました。

 すべての式の終わった後、私はほっとする間もなく、背の高い男のようにさっぱりした女の先生に呼び止められ、体育館の隅にある先生の部屋に連れていかれ、即、陸上部の選手に入れとすすめられました。それはすすめるというより、命令でした。

 そのうち、うぬぼれ屋の私も、先生が、私の運動神経の鈍さに愛想をつかしていることを認めないわけにはいかなくなりました。

 ある日、私はきっぱりと、陸上部から身を引きました。もちろん、先生はほっとした表情で、私を引き留めようとはしませんでした。

 それから、何年過ぎたでしょう。私の身辺に様々なことがあって、結婚し、子供も一人産んでいるのに、その子の四歳の時、夫と子供のいる家から飛び出し、独りの生活をはじめました。小説家になることが目的で、私は死物狂いで、その道一筋にしがみつき這いずり廻り、どうにかペン一本に身を任せ、細々と食べてゆけるようになっていました。それが奇跡中の奇跡だということさえ気づかない暢気さでした。

 そんなある日、原稿を届けに、中央公論社を訪ねました。編集室へ私が入るなり、黄色い声が飛んできました。

「あ、瀬戸内さん、待ってました。持ってきたわよ、ほうらこれ」

 彼女が机の下から引っ張り出したのは、運動具の槍一本です。先日、仕事が終わって雑談している時、私が昔、槍投げの選手をしたことを話したのを、覚えていた彼女が、話の真相を確かめるため、槍を持ってきたというわけです。和服を常着にしていた私は、その日も和服でした。後に引けなくなって、私は建物の外の広くもない庭に出て、何年ぶりかで槍を投げました。すかさず写真部の男がその姿を何枚かカメラに収めました。もうやけくそになって、私は袖もひるがえし、何度も何度も大空を仰ぎ、長い槍を投げつけました。

 それが次号の「婦人公論」のグラビアに出て、当分私は外へ出られない程、話題の人になったものです。いつ思い出しても、ひとり吹き出す経験です。

 白寿を迎えた老尼の思い出話としては笑えない? ヨコオさん。ではまたね。

週刊朝日  2021年7月30日号