半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。
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■横尾忠則「アイデアは探すのではなく、発見するのです」
セトウチさん
少し前の手紙でセトウチさんは僕の東京都現代美術館の個展のことで、急に元気になられたように思います。嬉しいですね。セトウチさんが元気になられた頃、僕は展覧会を控えて、倒れてしまい、入院の予定が病室が空いていないために通院しながら自宅静養になりそうです。オープニングが終ってから入院を考えています。少しいいことがあると、反作用が起こって少し悪いことも起こります。自然の法則です。
そんな時、担編の鮎川さんが、「どんな時にアイデアが浮かぶか?」と質問してこられました。絵は何を描くかではないのです。どんな風に筆でキャンバスに絵具をぬりたくるかが問題なのです。だからそこに何が描かれているかはどうでもいいのです。だから花でも猫でも顔でもなんでもいいのです。だからアイデアはあってないのです。僕は具象画家なので、その時思いついたものを描きます。アイデアを色々考えるのが面倒臭いので今は寒山拾得のヘラヘラ笑っている顔を描いています。大した意味はないので、変な顔だなあ、赤い顔だなあ、ちょっと気味悪いなあ、えらい荒っぽい描き方だなあ、完成していないなあ、とこんな風に見てもらえばいいのです。アイデアはないです。
絵はキャンバスの前に立った時、描く絵が決まります。ご飯を食べたり、トイレに入った時や道を歩いている時は何も浮かびません。ある一時期、滝の絵ばかり描いたり、Y字路(三差路)ばかり描いていたのは、あれこれ考えるのが面倒臭いからです。そして飽きたらまたすぐ別の絵を描きます。ピカソは女の絵ばかり描いていました。女が好きだから、というそれだけの理由です。横山大観などは面白くもない富士山ばかり描いていました。国粋主義者はそれでいいのです。もっとひどい時は昨日描いた絵をそっくりにもう一枚描きます。そして明日も同じ絵を描きます。いちいち考えなくてもいいのです。小説ではこんな具合にいきませんね。そこが絵の面白いところだし、小説家と画家は性格が全く違います。小説家は物語を考えますが、画家は物語など必要ないのです。見る人が自由に物語を考えます。見る側の人間が仕上げるのです。観賞者と共作です。