事実、五輪は「参加することに意義がある」と多様性を理念にしているが、昨今はやりの、金儲けを隠す見せかけの環境保全「グリーンウォッシュ」にならえば、実際の五輪は綺麗事(きれいごと)をなぞるだけの「スポーツウォッシュ」に成り下がっている。アスリートの華やかな活躍も、資本主義の暴力性を隠蔽(いんぺい)するための道具になってしまっているからである。
そして、観客も選手もうすうすその暴力性に気づきながらも、五輪に「感動」し、自国の活躍に酔いしれようとした。環境問題において「SDGsが大衆のアヘン」であるように、「スポーツもアヘン」になっているのではないか。
SDGsやスポーツが目指す国際協力、公正や持続可能性を真に求めるなら、ひたすら成長を求め続けたり、競争を煽(あお)ったりする社会のあり方を抜本的に変え、資本主義が持つ暴力性を排除していく方向に転換しなければならないはずだ。
つまり、「新型コロナが悪かった。開催のタイミングが悪かった。森氏や小山田氏のような人選が悪かった」という認識で止まってしまうのでは、不十分である。それだと結局、五輪そのものは悪くない。今の私たちの価値観や暮らし方は悪くない。資本主義は悪くないという話に帰着してしまう。
それほど深く、勝利至上主義や能力至上主義は私たちの日常に溶け込んでいる。相手を打ち負かす姿に感動した、と私たちが思ってしまうのは、他の人よりお金持ちになりたいという願望や、ライバル会社を打ち倒してもっと成り上がるんだといった、資本主義のベースにある価値観や発想と非常に親和性が強いからだという事実に目を向けるべきだろう。
けれども、このままさらなる競争を煽るだけでは、トップレベルの選手たちでさえも消費されていく。大坂なおみ選手のうつ病などは象徴的である。そのようなスポーツの競争主義・消費主義に対して、大坂選手は全仏オープンの記者会見をキャンセルし、米体操女子のシモーン・バイルス選手は心の健康を優先して、個人総合を棄権した。彼女たちの勇気ある行動に称賛の声が集まっているのは、スポーツのあり方の変化を皆が求めていることの表れであり、ここには希望がある。