当然ながら、気候変動などが「待ったなし」の危機的なこの段階において、五輪は環境問題の視点からも批判されるべきである。五輪以降はほとんど使用されない大型施設の建設に始まり、大量廃棄される選手村の空調設備にいたるまで、環境負荷のオンパレードである。4年ごとに各地で開催するたびに巨大な環境破壊が進む、この五輪の仕組みは早急に見直すべきだ。
『人新世の「資本論」』では、人類の経済活動が地球環境を破壊する時代に突入していると書き、経済成長と環境維持の二兎(にと)を同時に追うことはできないことを論証した。このまま、暴力的に金儲けを続けていけば、地球は人間の住めない環境になっていく。気候変動をはじめとする、この環境危機から抜け出すにはどうしても「脱成長」が必要になる。
「脱成長」というと、我慢ばかり強いられる社会が連想されるかもしれない。しかし、ここまでに見てきたように、人々から<コモン>を奪い、生命よりも金だと言って、パンデミック下の五輪を強行した資本主義のもとで、私たちはとてつもない我慢を強いられている。
むしろ、金よりも生命、金よりも環境という「脱成長」に舵(かじ)を切ったほうが、豊かさは保証されるのではないか。
その意味でも、金儲けの道具と化した五輪は、もはや「正義」ではなく、人々を抑圧する装置になっている。しかし、スポーツそのものが悪いと言いたいわけではない。スポーツは健康に資するだけでなく、対話、協調性、他者の尊重などを学び、発展させていく機会を与えてくれる真剣な「遊び」である。そこにお金や能力による垣根はない。スポーツは<コモン>なのだ。
そして、スポーツは、消費でストレスを発散することにくらべれば、はるかに脱成長的な豊かさをもたらす人間らしい営みのはずだ。その本来の形に戻るために、資本主義の暴力性とつながる過度な勝利主義から足を洗う必要がある。
もちろん、脱成長はスポーツにだけ求められるものでない。今回の負の遺産によって、資本主義の暴力性に日本人も気づいたはずだ。東京五輪によって取り返しのつかないほどの授業料を日本人は支払うことになる。だが、社会全体が「脱成長」に舵を切らなければ、資本主義のむき出しの暴力は、私たちを繰り返し、繰り返し襲い、完膚なきまでに我々の幸福や共通の富を奪うだろう。それこそが、避けなくてはならない最悪の事態である。
※AERA 2021年8月16-23日号に加筆