寒さが増すにつれ、恋しくなるのが湯けむりの情緒あふれる温泉宿だ。だが新型コロナウイルス禍に見舞われ、打撃を受けた旅館やホテルは少なくない。逆境に負けずにITやデジタル化を進め、起死回生を図る取り組みを紹介しよう。
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「システムの導入で最も大きく変わったのは従業員の働き方です」
そう話すのは鶴巻温泉(神奈川県秦野市)にある1918年創業の老舗旅館、「元湯 陣屋」で女将(おかみ)を務める宮崎知子さんだ。将棋や囲碁のタイトル戦の舞台としてファンになじみ深い陣屋は、かつて10億円もの借金を抱えて倒産寸前だった経営を立て直し、復活を遂げた旅館としても知る人ぞ知る存在だ。
宮崎さんが経営に加わったのは2009年。先代が亡くなり、ホンダのエンジニアを務めていた夫の富夫さんが跡を継いだのがきっかけだ。経営改善のため夫婦が最初に目をつけたのがITだった。宮崎さんはこう振り返る。
「料理に使う食材の在庫管理も、人件費も、当時は何から何まで手書きの帳簿につけてあり、経営分析しようにも、データをそろえるのに時間がかかる状況でした。そこで予約から従業員の勤怠や給料の計算、売り上げや利益の管理、設備の状況まで一元管理できるシステムを自前で作ることにしたのです」
たまたま応募してきた元システムエンジニアの従業員を採用できた幸運もあって、システムは翌10年に運営を始めた。従業員一人ひとりにタブレットを配り、全員がほぼ毎日更新される予約や経理のデータを見られるようにした。
一般に旅館では、利用客の情報は予約係やフロント係に集まり、接客や清掃にあたる従業員に伝わるまで時間差がある。その結果、本来は同じ立場の従業員の間でも、より多く情報を持つ人が優越感を覚えやすい。情報が少ない立場の人は、指示を待つ受け身の姿勢になりがちだ。
「システム導入後は自分で必要な情報を調べ、やるべきことをやる習慣が徐々に身についていきました。限りのある人数で効率的に業務を回すためには『マルチタスク化』が必要。社内も新しいことにチャレンジする積極的な人に仕事が集まり、重宝するムードができました」(宮崎さん)