最初は「平凡パンチ」の「モノセックス・モード」という企画ページのモデルとして呼ばれました。そこから長沢先生やセツの生徒たちと交流するうちに、彼らの持つ価値観に共感をおぼえていったんです。はじめ入校を申し込んだ時、長沢先生からは「モデルで食べられてるのならやめた方がいい」と止められましたが、結果的に"絵のモデル兼学生"という形で認めてもらえました。
モデルの仕事はお金も良かったし順調だったんだけど、業界としてはあまり好きになれなかったんです。赤坂あたりのバーに行って芸能人と一緒になって飲むことを喜んだり、そうでなければ麻雀ざんまい…そんな雰囲気に少しうんざりしていたので、ヒッピーファッションで自由な発想を持つセツの人たちを見て「こんな世界があったんだ!」と感激しました。まだ若かったので深いことはわからないんだけど、直感的に面白いなと感じたんです。
中将:長沢さんからはどんなことを学ばれたのでしょうか?
早川:長沢先生は良し悪しを評価するだけで、細かな絵の技法とかは教えないんですよ。代わりに博愛主義とか「自由な精神とはどういうことだろう」ということについて学生とワイワイガヤガヤ、噂話や猥談も混ぜながらそれとなく話すわけです。政治についても意識が高い方だったのでデモや成田の三里塚闘争にも率先して参加する。とにかく全てに大人だなと思える人でした。
中将:当時、早川さんも学生運動や政治活動に興味を持たれていたのでしょうか?
早川:長沢先生が左翼思想の持主で、セツもカウンターカルチャーの総本山みたいな所でしょう。だから現象としての興味は持ってましたが、僕自身は学生運動とかそういうものとは距離を置いていました。
中将:ともあれこの時期から絵のお仕事を本格的にされていくわけですね。
早川:はい。当時「平凡パンチ」で大橋歩さんや植草甚一さんといった当時のイラストレーター、文化人が審査員になって、絵のコンテストをたくさんやっていました。それに応募して何度も一等賞を取るうちに少しずつ仕事が増えていきました。キョードーがスポンサーのサム&デイブの来日公演のデザインコンテストでも一等賞でした。