――日本では自身のマネジメント会社やレーベルを立ち上げ、社長業もこなす日々。その先にいかなる夢を描いているのか。
正直、日本のクラシック音楽界の未来はとても厳しい状況にあると思っています。子どもが少なくなっている影響で、音大進学そのものが厳しいので経営不振に陥りかけています。47都道府県ほとんどの地域に音楽学校があるけれど、数を減らしてでも、もっとクオリティーの高いものをつくっていかなければならないのかな、と。多様な科を設けてソリスト育成をすればいいのに、少し古風な業界なので旧来の教育体制を変えにくいと思われている。だからこそ僕は皆で手をつなぎ、一緒に同じ方向を向こうと働きかけたい。日本のクラシック音楽界を変えたいと思っているんです。
――中学の頃から「夢を与えるピアニスト」になりたいと願っていた。漠然とした思いが学校をつくる目標につながっていく。
2016年の夏のある夜、リアルな夢を見たんです。僕は学校の先生で、校内を歩いていると、中高生が「先生」と駆け寄ってきて、皆でハハハと笑っている。目覚めたときになぜか涙が込みあげてきて、もしかしたら僕がやりたいのはこういうことなのかなと気づいたんです。
最初は恥ずかしくて口に出せなかったけれど、あるときDMG森精機という工作機械メーカーとの出合いがありました。世界中に拠点をもつ大企業で、ドイツで演奏してほしいと依頼されたのがきっかけです。社長さんから「何かお礼として手伝えることはないですか」と聞かれ、オーケストラと学校をつくる夢を話したところ、「面白いね」と。
4年の歳月を経て、一緒に「ジャパン・ナショナル・オーケストラ」という会社を設立し、一部上場も目指しています。将来、学校をつくるときも、「学長は誰か」と聞かれ、「反田なんて知らん」と言われるようなら、生徒は来ない。僕は海外からもどんどん留学生が訪れ、笑顔のあふれるコンセルヴァトワールをつくりたい。そのためにもコンクールに出る必要があったのです。
――ショパンコンクールを終え、世界が一気に変わった。音楽家として次なる夢も見えている。
僕が理想としているのは、オーケストラで指揮をすること。ウィーンで勉強しようと思っていますし、将来はオペラを振る指揮者になりたいです。ピアニストとしてはそろそろ中堅になるけれど、指揮者は40代頃まで新米だから、人生は長い。いろいろなことに揉まれながら、立派な音楽家になっていきたいですね。
(ノンフィクションライター・歌代幸子)
※AERA 2021年12月20日号