一方、スープ缶やモナリザなどを拡大して並べて刷るようなウォーホルの作品は、消費社会のありようを示してはいますが、ただ刷るのではなくて、微妙に描き加えたりと細工をしていて、そこに見事なデザイン性や絵心が表れている。彼は芸術を否定するような発言もしていますが、実は時代感覚を最大限生かしながら、新しい表現を生み出した本当の芸術家だと思います。
■アートの「価値」と葛藤
佐藤:アートには商品という側面もありますよね。これについてはどう考えますか?
李:アートそのものは、本来、売る売らないという問題とは関係ありませんが、現代は画廊やオークションやアートフェアなどの仕組みの中に、アーティストの活動が組み込まれています。僕の作品もオークションに出ることはありますから、全否定はできません。その仕組みと距離を置きたいけど、入らないと成り立ちにくいのも現実です。アートフェアもオークションも好きではありませんが、僕の手を離れた作品に責任は持てない。非常に苦しいですが、せめてアーティストは過度な商業主義には批判的な姿勢で、自制しながら作るべきですね。
佐藤:僕と同世代だと、友人でもある村上隆さんなどは、アートが価値を生むということを踏まえて葛藤しながらも活動していると思います。
李:60年代後半、70年代初め、破壊や否定を経験した僕たちは幸せだった。迷いながらも戦いに生き抜くとはどういうことか、実験しながら生きてきた。佐藤さんたちの世代は圧倒的に平和で破壊の対象が見えにくく、当時ほどデモや労働運動も起きません。村上さんは、そんな社会をある意味茶化しながらも、その裏に毒を盛るという、どんでん返しの発見をしたと思います。
■現場としての空間
佐藤:僕たちのジェネレーションだと若い時に社会に対して大きな不満もなくて。物申す相手が見つからず、僕は広告やデザインの方にリアリティーがあると思って、そっちに行ったんです。アートも作っていましたが、怒りとかはなかった。今、戦争が起きたりして、自分がそういう時代に生きてきたんだということがはっきり分かりました。後戻りもできないし、いいも悪いもないんですけど、やっとそういうことが言えるようになったというか。
李:僕らの世代から見てもやりにくいだろうなと思います。佐藤さんが正直にそう言えるようになったということは、いろいろ見えてきたということですよ。
佐藤:社会や人にとって、アートはどういうものなんでしょう。