人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、「かつて、そして、いつか」。
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記憶の底に眠っていた感覚が呼び覚まされた。空襲警報が鳴る。母に起こされて、前庭に掘った防空壕に急ぐ。いつ何時でも、すぐ対応できるように、夜寝る時は最小限の持ち物を袋に入れ、枕元には着替えをきちんとたたんで寝る。それが癖になった。
もう一つ、私の場合、小学二、三年の時に結核で休学し、家で隔離されていた。小さな盆の上には水と薬が用意されていた。防空壕は湿気ていて、その暗がりに退避するだけで気分が悪くなった。あのムッとした空気の不快さは今も忘れない。
太平洋戦争の終わりに近く、都市部は毎日のように空襲にさらされ、疎開していく人も多く、間もなくわが家も奈良県の信貴山に縁故疎開するのだが、その疎開先でも空襲を受けて焼け出された人は多かった。
つれあいの家は東京から甲府に逃げたが、その先で空爆に遭い、家は焼失し、防空壕も火が入り、義母は子供二人の手をひき、幼子だったつれあいを背負って逃げまどったという。
ウクライナの地下壕や、地下鉄の駅に身を寄せる人々を目にして、あの時の感覚がよみがえった。子供だったとはいえ、あのよるべない不安な気持ちは忘れてはいない。
男たちはほとんどが出征して、女と子供だけが残された。ウクライナは国民総動員令で十八歳から男子は国を守るために戦闘に参加しなければならない。
私の父は軍人なので当然だが大学生の叔父たちも動員され、中学生だった兄はかろうじて残った。
ポーランドをはじめ近隣諸国へ難民として向かうのは女・子供・老人。長い長い車列ができ、幼い子の手を引いて徒歩で荷を引く母親の姿がある。いつでも、どこでも同じ、戦争は起きた途端に生活が一変する。そして起きたが最後、多くの悲劇を生み、途中でやめることができなくなる。