田原総一朗氏が、ジャーナリストになったわけを明らかにする。
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実はこのたび、日本外国特派員協会から「報道の自由推進賞」をいただくことになり、4月26日に、特派員協会で授賞式が行われた。
授賞式ではTBSの金平茂紀さんら他の受賞者がスピーチをされたが、いずれも英語であった。英語も満足に話せない、88歳の私が、このような賞をいただくのは恐縮の限りだが、身に余る光栄で、本当にありがたいと受け止めている。
そもそも、私がジャーナリストになりたいと思ったのは、私が「戦争を知る最後の世代」だからだ。
私が小学校5年生になると軍事教練が始まり、本格的な社会の授業が始まった。
先生たちは私たちに「この戦争は世界の侵略国である米英を打ち破って、ヨーロッパの国々や米国の植民地にされているアジアの国々を独立させるための正義の戦争である。だから、君たちも早く大人になって戦争に参加し、天皇陛下のために名誉の戦死をせよ」と強調した。
私は、その言葉を信じ切って、大人になったら戦争に参加して、天皇陛下のために名誉の戦死をする、との覚悟を固めていた。
ところが、夏休みに昭和天皇の玉音放送を聞くことになった。
玉音放送はノイズが多く、難しい言葉が使われていて、5年生の私にはすべて理解できたわけではなかったが、どうやら戦争が終わるようだ、とはわかった。
そして午後、市役所の職員がマイクで「戦争が終わったのだ」と言ってきた。戦争に敗れたわけである。
私は、中学を卒業したら海軍兵学校に入るのが夢だった。だから、前途が真っ暗になった、と絶望的になって泣き、そのまま寝てしまった。いわば泣き寝入りである。
2学期に入ると、米軍が進駐してきた。そして、占領体制ができると、9月下旬から先生たちの言うことが百八十度変わった。
あの戦争はやってはならない間違った戦争で、正しいのは米英であった、と。