バックパッカーの神様とも呼ばれる、旅行作家・下川裕治氏が、世界を歩き、食べ、見て、乗って悩む謎解き連載「旅をせんとや生まれけむ」の番外編。今回は、医療格差が激しいタイで起きてる保険事情について。
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タイの保険会社業界が、新型コロナウイルス保険をめぐって揺れている。事業免許の取り消しや、廃業、事業停止などにさらされている保険会社は4~5社に及ぶといわれている。
支払いができなくなった保険金は国が保証することになったが、その申請窓口があるタイ損害保険協会の前は、人で埋まっている。現地の報道ではその数は連日、数千人に及ぶという。
「ヂューヂャイヂョプ」。日本語に訳すと、「コロナにかかったら(治療費は)当社が支払い、完了」という保険会社のコピーだ。コロナの感染拡大前に筆者がタイを訪れた際、頻繁に目にした。感染が広まりはじめた時期だったこともあり、ヒット保険になった。関係者によると、2021年の前半、新規加入者は月に500万件を超えていたという。
タイ政府は、新型コロナウイルス感染者の治療の無料化を打ち出していた。それなのになぜ保険なのか?
そこにはタイの医療の現実があった。タイの公立病院には、30バーツ、約110円ですべての治療を受けられる医療制度がある。しかしこの制度を利用すると、「治療を後まわしにされる」「医師が誠意を見せない」など露骨な治療格差があるといわれていた。だから中間層以上は治療費が高い私立病院を選ぶことが多かった。
政府が打ち出したコロナ治療無料化も、その文脈でとらえられた。つまり無料の治療を受ける病院はしっかり治療をしてくれない……と。
貧困層は保険の一時金に飛びついた。1年のかけ金が2千円を切るような安い保険でも、10万バーツ(約37万円)の一時金を受け取るタイプが多かった。保険によっては数十万バーツというものもあった。
アパート経営のタイ人Pさん(66)は、加入者急増の一因を話してくれた。
「意図的に感染して一時金を狙うための保険加入が増えたんです。タイ人はヤードンという鼻薬をよく使う。感染者が鼻に入れたものを自分の鼻に入れたりしてね。意図的な濃厚接触も横行した。ただ、一時金を受け取っても死亡する人が出てきて下火になりましたけど」