五月五日の端午の節句では菖蒲が主役でした。時宜遅れを「六日のアヤメ、十日の菊」とも言うように、菖蒲は五日限定ですが、古典文学で五月を通して代表するものと言えば、現代人にはほとんど縁遠いホトトギスです。今回はホトトギスについて、平安和歌を中心に紹介します。
この記事の写真をすべて見るホトトギス、その漢字や鳴き声は?
ホトトギスは異名が多い鳥ですが、漢字表記でも以下のようなものが知られています。
時鳥・郭公・子規・不如帰・杜鵑・蜀魄・霍公鳥。
おそらく一語については最多ではないでしょうか。このことだけでも格別な鳥だと知られます。これらの中に「郭公」もあります。これはカッコウという別の鳥のはずなのに、と違和感をおぼえますが、実はホトトギスはカッコウ目カッコウ科に属し、ウグイスに託卵することも共通するので、混同されていたのかもしれません。
古典和歌で郭公はホトトギスの表記として、ごく普通に使います。なお他のいくつかの表記は中国の伝説に由来がありますが、それは後ほど触れることにします。数あるホトトギスの表記の中で、今回は「時鳥」を代表で用いることにします。
時鳥は万葉集でも150首余り詠まれ、古今集では夏に属する歌34首のうちの28首で詠まれています。春の桜に劣らず、まさに時鳥は夏を代表する鳥でした。
ホトトギスは渡り鳥の夏鳥で、五月ごろ南方から飛来します。「キョッキョッキョキョキョキョ」と鳴き、「テッペンカケタカ」とか「特許許可局」と聞こえるなどと言われますね。筆者は自宅で夏の朝に聞き、ウグイスとはちょっと違うなと気づきました。その鳴く様は、
〈谺(こだま)して 山ほととぎす ほしいまま(杉田久女)〉
のように、山では昼でも「ほしいまま」に鳴いているようです。しかし、平安和歌では、そうした実際の生態と別に、鳴く時間帯や鳴き方など、歌人たちが好んだ共通の美意識によって絞られて詠まれています。
ホトトギスを詠む和歌の基本
平安時代の時鳥を詠む上でのポイントは古今集にほぼ尽くされています。それらについて和歌を挙げて見てゆくことにします。
〈いつのまに 五月来ぬらむ あしひきの 山時鳥 今ぞ鳴くなる〉
〈夏の夜の 伏すかとすれば 時鳥 鳴く一声に 明くるしののめ〉
〈思ひいづる 常磐(ときわ)の山の 時鳥 唐紅(からくれない)の 振りいでてぞ鳴く〉
三首とも夏の歌ですが、まず最初の二首を見ると「早くも五月が来たらしく、時鳥が鳴き始めたようだ」というものと、「夏の夜は短いものだが、眠りに就いたと思ったら時鳥が一声鳴いて夜が明けた」というものです。
これらには時鳥の詠み方の大事な点が表現されています。つまり、時鳥は「五月になると」、南方からの渡り鳥としてではなく、「山から飛来して鳴き」、それは「夜更けから明け方間近」で、「一声鳴く」ということです。
三首目は、「昔を思い出す時、常磐の山の時鳥が紅の色を染めるように絞り出して鳴き声を挙げているよ」というものです。その声は「昔を思い出す」ことに結びついて、「悲痛な印象」だということです。
この歌の注釈には、唐の詩人白居易による有名な長詩「琵琶行」という、平安時代すでに日本に伝わっていた詩の一節、「杜鵑は啼血(血を吐いて鳴く)」が参考に挙げられています。時鳥は口の中が赤く、血を吐いて鳴くというイメージなのでしょう。このように、時鳥には漢文世界からの知識もイメージ作りに関わっていたようです。
ホトトギスは、蜀王の化身
前項で述べた時鳥の漢字表記の多さは、中国の伝説に拠ります。それは、中国の蜀で望帝と号した杜宇(=杜鵑)という王が、帝位への未練を残して死後に時鳥となり、国が滅んだことを嘆き悲しみ鳴いたという伝説です。やはり、古今集の夏の歌で、
〈時鳥 鳴く声聞けば 別れにし ふるさとさへぞ 恋しかりけり〉
があり、時鳥の声に誘われた懐旧の思いを歌っています。この歌から、下河辺長流という近世前期の国学者は、その著「続歌林良材集」で、蜀王が化した時鳥を、
〈その鳴く声、「不如帰去」と鳴くなり。これ故郷を思ひて「帰らんにはしかじ」という心なり〉
と、杜宇の旅中で抱いた望郷への切ない思いが、死後に化した時鳥の声に溢れていて、その声は故郷を思って「帰ることにまさることはない」と鳴いているのだと述べています。
これが、「杜宇・杜鵑・不如帰」をホトトギスと読む由来です。また、杜宇が死んで時鳥に化したが、蜀の人はその鳴き声を聞いて「我が帝の魂」と言ったともあり、ここから「蜀魄」も加わったのでしょう。さらに、
〈この鳥の鳴くを待って農事を興すは、そのかみ(昔)望帝、稼穡(農事)を好める王の魂なる故に、なほ農の事を勧むるなるべし。……この鳥死出の山より来る鳥なれば、死出の田長(たおさ)と名づく。田長は農を催す名なり。これ彼の蜀王の死して、その魂の鳥と化して更に帰りくる故に、死出の山より来るといふ義か〉
とあります。つまり時鳥は「死出の田長」といって、農事を勧める鳥と呼ばれていたということ、さらに死の国から飛来するという新たな時鳥のイメージが加わります。こうした蜀の杜宇についての伝説は、「華陽国志」「蜀王本紀」「抱朴子」などの中国の古い書籍から学ばれていたようです。しかし、山を死者の世界として、時鳥が人々の生活する里と往復するという発想には、日本古来の農村の考え方も結びついたものかもしれません。
まず時鳥が農事を勧める鳥とされるということですが、古今集にある、
〈いくばくの 田を作ればか 時鳥 しでの田長を 朝な朝な呼ぶ〉
での歌意は、「どれほどの広い田を作っていると、時鳥は咎めるように、シデノタオサと鳴いて田長を毎朝呼ぶのか」といったものです。ここでの鳴き声が、時鳥そのものを指すようになるとされます。
時鳥が死の国、あるいは冥界と縁が深いことを次の項で見ていきます。
冥界の使者、ホトトギス-「和泉式部日記」の始まり-
平安文学中の珠玉の短編、和泉式部日記は、高名な歌人和泉式部と冷泉天皇の皇子敦道(あつみち)親王との恋愛を綴った歌日記です。冒頭は、和泉の元恋人だった、敦道の兄為尊(ためたか)親王の死から、ほぼ一年後、為尊の従者だった童が敦道の使いとして、橘の花を和泉にもたらしたところから始まります。なぜ橘なのかは、次の古今集の歌に拠ります。
❬五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする❭
橘の花の香りは昔親しかった人の香りを甦えらせるという内容です。つまりここでは、橘の花が亡き為尊親王を偲ぶ和泉の心を促すことを、敦道が期待して贈らせたのです。そのことへの和泉の反応が、この日記最初の時鳥を詠んだ歌です。
❬かをる香に よそふるよりは 時鳥 聞きかばや同じ 声やしたると❭
「昔を偲ぶという橘の花より、時鳥の声を私は聞きたい」という内容です。ここに時鳥が用いられるのは、時鳥が亡き親王のいる死者の国から来たとされるからです。時鳥が親王の声を思い出させることに期待したいというのが、和泉の答えです。それに、敦道が答えます。
❬同じ枝に 鳴きつつ居りし 時鳥 声は変はらぬ ものと知らずや❭
「時鳥に兄の声を求めるなら、私は同じ枝に止まっていた弟ですから、同じ声ですよ、親しくしましょう」という内容です。和泉の歌を自分の意図に沿って、わざと捩じ曲げて答えたと言えそうです。しかし、実は敦道がそのように答える余地は、すでに和泉式部の念頭にあったのかもしれないようにも思えます。和泉式部の恋歌でのしたたかさも垣間見えるようです。そして、この二首がきっかけになって、二人の恋を描く和泉式部日記の世界が繰り広げられることになります。
ホトトギスと恋歌
時鳥が平安和歌で、なぜそれほど好まれたのかと考えた時、深夜から明け方という時間の限定に意味があるように思います。枕草子が「夏は夜」と言うように、昼は暑すぎるせいもありますが、平安貴族にとって、夜更けは男女の恋の極みになる時間です。恋人と共に夜を過ごす最後の別れ直前の時間、あるいは恋人を待ち続けたが訪れはなく、むなしさを感じざるを得ない時間、それが時鳥の鳴く時に重なります。
〈時鳥 夢かうつつか 朝露の おきて別れし 暁の声〉
という歌は、古今集の恋の歌です。ここで時鳥は恋人の面影を映す者とも読めます。「おきて」は、朝露が「置く」ことと、朝「起きる」ことを掛けています。この一首は、「恋人との短い逢瀬が夢の中のことか現実かわからないほどはかなくて、目覚めると朝露が置く時に飛び去った明け方の時鳥の声のみが耳に残って、それが恋人に会った名残だ」というものです。このように、時鳥の鳴く時と、恋の思いの最も深まる時間帯は重なるのです。このことが時鳥が好んで和歌に詠まれた大きな理由のひとつではないかと思います。
旧暦5月1日は、令和2年の6月21日。梅雨のさなかですが、ぜひ時鳥の声に耳を澄ませてみたいものです。
参照文献
古今和歌集全評釈 片桐洋一 著(講談社)
続歌林良材集 久曽神昇 編(風間書房 日本歌学大系別巻7)
和泉式部日記 近藤みゆき 訳注(角川ソフィア文庫)
歌ことば歌枕大辞典 久保田淳・馬場あき子 編(角川書店)