朝日新書より2月13日発売予定

 私は明治あたりの小さな文化を調べている。そんな明治の文化の中に、簡易生活と呼ばれるものがある。簡易生活は明治から大正・昭和初期に書かれた小説やエッセイ、実用書や雑誌にしばしば登場する。私自身も初めは簡易な生活くらいの意味に捉えていたのだが、調べてみるとそれは思想でもあり、優れた生活法でもあった。

 かつて簡易生活は、世間に知れ渡っていた。夏目漱石も簡易生活の実行者の一人で、殺到する訪問者に対処するため面会の日を木曜日と定めていた。芥川龍之介や坂口安吾の愛読者なら、何度か簡易生活という言葉と出合っているかもしれない。もちろん市井の人々も簡易生活を知っていた。地方に住む青年や、都会で働くお手伝いさん、様々な人が簡易生活者として生きていた。

 簡易生活は小さな運動で、後には生活改善運動という組織ぐるみの活動に取り込まれていく。その過程で元々曖昧だった意味は薄れていき、昭和に入ると質素な生活という意味合いで使用されるようになる。そんな時代の流れを経て、簡易生活はすっかり忘れ去られてしまった。しかし簡易生活には、文化面でも実用面でもゆるがせにできないところが実に多い。

 もともと簡易生活は西洋のベストセラー『Simple Life』に触発されて生まれた思想で、和洋問わず様々な文化をごった煮にして形成されている。明治時代は西洋文化を受容しつつ、日本固有の文化をどう活かすのかを考え続けた時代である。簡易生活はそんな明治時代の縮図に見えなくもない。さらに一時期は専門誌が出たほどに人気があった考え方で、簡易生活に影響を受けた人物も多かった。

 簡易生活は消滅してしまった小さな文化ではあるものの、今でも十分に通用する考え方だ。簡易生活を簡単に解説すると、科学的、合理的に考え行動し、必要にして十分なものを選択する。そうして物事の中心を見出し、自分や他者の能力を発揮させるための生活法である。あまり知られていないことだが、明治人の中には迷信や嘘を病的に嫌う人々がいた。そんな人々が、より良い生活を実現するために考案したのが簡易生活なのだから、合理性や科学的な思考が重視されているのも当然だ。

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