新大橋を錦糸町方面に向かって轟音を立てながら渡る都電36系統。明治時代末に竣工したアールヌーボー風の唐草模様が美しい鉄橋だ(撮影・諸河久:1965年8月17日)
新大橋を錦糸町方面に向かって轟音を立てながら渡る都電36系統。明治時代末に竣工したアールヌーボー風の唐草模様が美しい鉄橋だ(撮影・諸河久:1965年8月17日)
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 2020年のオリンピックに向けて、東京は変化を続けている。同じく、前回の1964年の東京五輪でも街は大きく変貌し、世界が視線を注ぐTOKYOへと移り変わった。その1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、隅田川に架かり、下町情緒あふれる江東区・深川と古くからの門前町・水天宮方面をつなぐレジェンド「新大橋」付近だ。

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 夏の風物詩、隅田川花火大会がまもなくだ。その打ち上げ会場から少し下流に位置する「新大橋」は、江戸時代には「大川」と呼ばれた隅田川で、千住大橋、両国橋に次いで3番目に架けられた橋だ。両国橋を大橋と呼んでいたので、その下流に架けられた大橋の意味で「新大橋」と命名された。竣工は元禄6(1693)年。同時代に生き、深川に居を構えた俳人・松尾芭蕉も新大橋を句題にしており、浮世絵にも描かれた江戸の名橋だ。

 それまで木橋だったが、明治があと数日で終わろうとする明治45(1912)年7月19日に、写真にある鉄橋として竣工した。アールヌーボー風の唐草模様に飾られた橋門を鑑賞しつつ、都電が渡河する橋として親しまれた。

 都電36系統は錦糸町駅前を発して、住吉町二丁目~森下町~水天宮前~茅場町~桜橋~築地に至る6266mの路線だ。このうち隅田川を新大橋で渡る区間(新大橋~浜町二丁目)の開業は、新大橋が竣工した半年後の大正元(1912)年12月15日だった。まさに新大橋の竣工に合わせて開業した路線といえよう。

 昭和初期は39系統(後に30系統)を付番され、新大橋を渡って錦糸堀から水天宮前を結んでいた。開業当初は東詰めの新大橋停留所が安宅町、西詰めの浜町二丁目停留所を新大橋と呼称していた。1967年12月までは、渋谷駅前から浜町中の橋を結ぶ9系統もこの新大橋を渡って森下町まで、朝夕のラッシュアワーに臨時運転された。

 夏の早朝、新大橋の東詰め(深川方面)で新大橋を渡ってくる都電を狙う。米カーネギー社の輸入鉄材を使ったトラスが「ゴー」と共鳴する。隅田川を渡河してきた36系統錦糸町駅前行きがファインダーの中に入る。後方からの車や自転車に被られないことを祈って、シャッターチャンスをうかがった。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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