ドラマや映画、舞台で引っ張りだこの俳優・瀧内公美さん。下積み時代に感じた俳優としての決意、そして確固たる「芯」を持てるようになったある監督とので出会いを振り返る。
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子供の頃、祖父に連れられて、富山市にあるオーバード・ホールに何度か足を運んだことがある。富山が誇るスター・立川志の輔さんは、地元で開催される「志の輔らくご」に限り、富山弁で落語を披露した。そのチケットは毎年申し込みが殺到した。志の輔さんの大ファンである祖父が運よくチケットを入手すると、孫を連れて劇場に向かった。
「豪華な劇場空間で、富山弁で聞く落語は、子供心にもとても楽しいものでした。行きの車の中でもワクワクして、帰りは帰りで余韻に浸って。当時はオーバード・ホールでお芝居は見たことはなかったのですが、劇場に足を運ぶ行為には、心が浮き立つような思い出しかありません」
子供の頃から、演じることに憧れはあった。ただ、富山にいた頃は、芸能イコール華やかできらびやかな世界という印象。中学生のときに地元にシネコンができてから、話題の映画は観ていたものの、ミニシアターというものがあることは、上京するまで知らなかった。
「渋谷のユーロスペースでは、自分の知らない国に、こんな監督がいて、こんなアート映画があって、生活環境が良いとは言えない同い年くらいの子が一生懸命生きていることに衝撃を受けたりして。耳で聞いていても何を言っているかわからないのに、字幕を追っているうちに、登場人物と一緒に泣いたり笑ったりしていて。『映画って本当に世界の共通言語なんだ』ってことに、すごく感動しました」
映画好きの友人たちが、一緒に観た映画について感想を伝え合うことも新鮮だった。
「私自身は語れることなんてないんですが、みんなの話を聞いているのが面白かったです。それぞれが、自分の感じたことを素直に言葉にしているのを見て、『イキイキしてるなぁ』って思ったし、すごくキラキラして見えました。当時の私の中には、まだ『自分はこれが好き!』って言えるものが何もなかったので、以来いろんなことを吸収したくて、『面白い映画ない?』と聞きまくって」