DEREK & THE DOMINOS 《LAYLA》
<br /> Album 『LAYLA and OTHER ASSORTED LOVE SONGS』 (1970)
DEREK & THE DOMINOS 《LAYLA》
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Album 『LAYLA and OTHER ASSORTED LOVE SONGS』 (1970)

 5弦の0フレット、3弦の7フレット、あるいは、2弦の10フレットあたりから、ゆっくりとでもいいので「ラドレファレドレ」と弾いてみよう。あのきわめて特徴的なイントロが浮かび上がってくるはず。そう、アルバム『レイラ・アンド・アザー・アソーテッド・ラヴ・ソングズ』の中心トラックとして1970年秋に発表されて以来、数多のアマチュア・ギタリストたちの心をとらえ、衝き動かしてきた、あの《レイラ》だ。エレクトリック・ギターに触ったことがないのに、あのイントロが聞こえてくるとついエア・ギターらしきことをしてしまうという方も、少なくないだろう。

 1945年、ロンドンの南に位置するサリー州リプリーで生まれたエリック・クラプトンは、複雑な家庭環境で幼少年期を送るうち、アメリカの音楽、とりわけブルースに惹かれていった。やがてギターを手にした彼は、ラジオやレコードと向きあいながらブルースの基本をマスターし、いくつかのバンドで腕を磨いたあと、63年秋、18歳のとき、ヤードバーズに迎えられている。その後、ブルースブレイカーズをへて結成したクリームのギタリストとして頂点に立つのだが、ザ・バンドと名乗る5人組から届けられたオーガニックな音に刺激を受けた彼は、超絶的な演奏ではなく、歌そのものを大切にする方向性を模索するようになる。

 しかし、スティーヴ・ウィンウッドらと組んだブラインド・フェイスでも、関係者の商業的思惑やファンの無理解などもあって、状況は変わらず、当時24歳のクラプトンは、ツアーの前座を務めていたアメリカ南部出身のデュオ、ディレイニー&ボニーと行動をともにするようになってしまう。結局、ブラインド・フェイスは分裂。ディレイニー&ボニー&フレンズやリオン・ラッセルらの協力を得て最初のソロ・アルバム『エリック・クラプトン』を発表したあと、フレンズの中核メンバー(ベース=カール・レイドル、キーボード=ボビー・ホイットロック、ドラムス=ジム・ゴードン)を引き抜く形で新バンド、デレク&ザ・ドミノスを結成したのだった。スーパースターとして扱われることをなんとか避けたい。匿名性を重視したバンド名からは、そんな想いが伝わってくるようだ。

 理想的なバンドを組み、周囲からの雑音に邪魔されることなく、新たな一歩を踏み出そうとしていたクラプトンは、しかし当時、大きな苦悩を抱えてもいた。それは、2歳上の親友ジョージ・ハリスンの妻パティを深く愛してしまったこと。つまり、叶わぬ恋、許されざる愛。オリジナル曲もカヴァーも、ほぼ全曲が、このクラプトンの想い、苦悩をもとに選ばれていった。

 マイアミのクライテリア・スタジオで70年8月末にスタートしたデレク&ザ・ドミノスのレコーディングには、数曲を録音した段階で、さまざまな偶然も重なって、オールマン・ブラザーズ・バンドのドゥエイン・オールマンが参加。互いに刺激し、高めあう二人のギタリストの関係が、毎日のセッションをより密度の高いものとしていくこととなる。《レイラ》は、その歴史的なセッションとクラプトンが抱えていた苦悩など、すべてを象徴するものだ。

 冒頭で紹介したイントロのあと、何本ものギターが鳴り響くなか、クラプトンがロバート・ジョンソンの《ラヴ・イン・ヴェィン》なども意識したと思われるリアルな言葉を歌っていく。そして圧倒的なインパクトの長いソロがあり、一瞬の静寂のあと、ジム・ゴードンが書いた後半のピアノ・パートではドゥエインが、トレードマークだった大空を翔回るようなスライド・ギターをたっぷりと弾きまくる。今も多くのアマチュア・ギタリストたちの心をとらえて放さない名曲はそのようにして生まれたのだった。

 このときクラプトンが弾いていたのは、クリーム時代にロンドンのギター・ショップで購入したものだという、1956年製のフェンダー・ストラトキャスター。愛称は「ブラウニー」。サンバーストのボディと美しい木目のメイプル・ネックが印象的なこのギターは、99年に開催されたクロスローズ・センターのためのチャリティ・オークションで、約50万ドルで競り落とされている。[次回3/15(水)更新予定]